じじぃの「人の死にざま_911_岡田・桑三」

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岡田桑三 画像
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岡田桑三(山内光) 画像
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岡田桑三 ウィキペディアWikipedia)より
岡田桑三(おかだそうぞう、1903年6月15日 ‐ 1983年9月1日)は、日本の映画俳優、映画プロデューサー。俳優としての芸名は「山内光」。
横浜の商家の娘・よねと番頭の美平の間に生まれる。ドイツ、ソ連で舞台美術、映画、写真の技術を学んだ。日活、松竹で俳優として映画に出演する一方、日本プロレタリア映画同盟、写真・映画団体「国際光画協会」、写真集団「日本工房」などに関わり、プロパガンダグラフ雑誌「FRONT」を発行する「東方社」の創設に参加。多くの映画人、写真家、美術家らに影響を与えた。

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『新忘れられた日本人』 佐野眞一/著 毎日新聞社 2009年発行
思想、職種を超えた人脈・岡田桑三 (一部抜粋しています)
岡田桑三と聞いて、東京シネマという科学映画専門の映画制作会社を設立し「ミクロの世界」や「マリン・スノー」などの傑作を製作した人物だとわかる人は、よほどの映画通である。
だが、岡田の名は知らなくても、彼が80年の生涯に関わった人間は、誰かしら知っているはずである。岡田の交友関係の多彩さは圧巻である。そのキラ星のごとき人脈は、さながら東西の近現代文化人を一堂に集めたようである。ちょっと並べてみよう。
南方熊楠小山内薫木村伊兵衛渋沢敬三岡田嘉子、セルゲイ・エイゼンシュティン、江上波夫ヴァルター・ベンヤミン林達夫名取洋之助ロバート・フラハティー、原弘、岡正雄、フセヴォロド・プドフキン、そして甘粕正彦……。
少し解説しておけば、南方熊楠は「歩くエンサイクロペディア」と呼ばれた世界的博物学者、小山内薫は「築地小劇場」をつくったわが国新劇の開祖的存在、木村伊兵衛は日本を代表する写真家である。
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岡田にはイギリス人の血が4分の1入っている。岡田の母・よねは対日融資のため来日した銀行家と、横浜で生糸を扱う裕福な商家の跡取り娘の間に生まれた日英混血児だった。
よねは銀行家の父が故国に帰国後も、横浜に残り、跡を取った生糸問屋の番頭と結婚して、明治36(1903)年、岡田を産んだ。
岡田の若い頃の夢は、美術の世界に進むことだった。岡田は大正11(1922)年、19歳のとき、舞台美術の勉強をするため、ドイツ留学に旅立った。そのとき、神戸からマルセーユに向かう鹿島丸の船中で知り合ったのが、横浜正金銀行ロンドン支店に赴任途上の渋沢敬三だった。
渋沢は少年時代から学者を目指していたが、祖父・栄一から家督を相続するよう強く説得されて学者の道を断念、銀行家になる道を選んだ。しかし、渡欧以前から、東京・三田のお屋敷の屋根裏部屋に日本各地で散逸しつつあった民具を蒐集・所蔵する目的でアチック・ミュージアム(屋根裏博物館)をつくり、在野の研究家との交流を深めていた。岡田が後年、岡正雄江上波夫などの学者たちと親交をもつのは、このとき渋沢と知り合った縁によるものだった。
ドイツで革新的な芸術運動にふれた岡田は大正13年に帰国すると、混血特有のエキゾチックな顔立ちを活かして映画界入りした。本名の岡田桑三ではなく山内光という芸名でデビューしたのは、当時、岡田が入った京都日活撮影所には岡田時彦岡田嘉子という岡田姓の俳優が2人もいたからである。
無声映画時代を代表する二枚目スターだった岡田時彦は、岡田茉莉子の父親である。
山内光という芸名は、映画界入りするにあたっていろいろアドバイスしてくれた作曲家の山田耕作と劇作家の小山内薫の名前から、山田の「山」と小山内薫の「内」をとり、名前も姓同様左右対称の字画で、映画に関する字がいいだろうと「光」とした。
岡田はその後、京都日活から松竹蒲田に移った。岡田が日活と松竹で出演した作品は100本にも及んだ。だが、起こ打破映画俳優でけで満足できるような男ではなかった。
昭和4(1929)年3月5日、治安維持法に反対していた労農党代議士の山本宣治が右翼に刺殺された。その抗議のため告別式を兼ねた集会があると聞いた岡田は、ただちにこれを撮影することに決めた。これが「山宣告別式」というドキュメンタリー映画となった。
その年の7月、モスクワ、ベルリンを歴訪したときも、自分が撮影した「山宣告別式」のフィルムを持って行き、これがエイゼンシュティンやプドフキンなどと知り合うきっかけになった。
帰国した翌年の昭和5年6月、岡田は「プロキノ友の会」の設立発起人となった。プロキノとは、日本プロレタリア映画同盟の略称である。その翌年には、「第12回東京メーデー」を撮影している。
岡田が個性的なのは、その間も映画俳優をつづける一方、写真にも興味をもって、名取洋之助木村伊兵衛、原弘らと日本工房を設立していることである。
日本工房にはその後、土門拳亀倉雄策も加わった。土門は戦後『筑豊のこどもたち』『古寺巡礼』などを発表し、日本を代表するリアリズム写真家の名声を不動のものにした。また、亀倉は昭和39年の東京オリンピックのポスターをデザインしたことで知られる。
こう書くと岡田は左翼一辺倒の思想の持主だと思われがちだが、昭和16年には陸軍参謀本部の肝煎りで東方社を設立、理事長に就任した。東方社からは当時としては画期的なデザイン、レイアウトの対外プロパガンダ誌「FRONT」を発刊した。
満映理事長の甘粕の誘いを受け、天然色フィルム研究のため、満映に嘱託として入ったのは、この時代である。一方でプロキノ運動に奔走し、一方で”主義者殺し”の甘粕のもとに。この振幅が、よしくも悪くも岡田の個性だった。
戦後、満州から帰国した岡田は旧知の渋沢敬三とはからって、ミナカタ・ソサエティを設立し、『南方熊楠全集』を刊行した。融通無碌な性格は戦後もかわらず、アメリカの出版社から翻訳出版権を買い取り、「スーパーマン」の日本語版を出版する。目先に利く商売人でもあった。
大正から昭和の戦前、戦後の思想的・文化的潮流をひとりの人間の営為に凝縮すれば、岡田桑三のような人間ができるかもしれない。

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