じじぃの「人の死にざま_962_甘粕・正彦」

甘粕正彦 - あのひと検索 SPYSEE
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満州国ハルピン 8ミリフィルムより  動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=7Jl4S9tFJIs
甘粕正彦乱心の曠野 佐野眞一/著
大杉事件の主謀者として“主義者殺し”の汚名を負い入獄。後年、満映理事長に着任後は一転、満州国の「夜の帝王」として君臨した、元憲兵大尉・甘粕正彦。趣味は「釣りと鴨撃ち、そして謀略」と公言し、現代史の暗部を彷徨した甘粕が、自死と共に葬ろうとしたものは何だったか? 講談社ノンフィクション賞受賞の衝撃作に、新事実を大幅加筆。通説を大きく揺さぶる満州巨編評伝。
http://books.google.co.jp/books/about/%E7%94%98%E7%B2%95%E6%AD%A3%E5%BD%A6%E4%B9%B1%E5%BF%83%E3%81%AE%E6%9B%A0%E9%87%8E.html?id=DhuVkgAACAAJ&redir_esc=y
甘粕正彦 ウィキペディアWikipedia)より
甘粕正彦は、日本の陸軍軍人。陸軍憲兵大尉時代に甘粕事件を起こしたことで有名(無政府主義者大杉栄らの殺害)。短期の服役後、日本を離れて満州に渡り、関東軍の特務工作を行い、満州国建設に一役買う。満州映画協会理事長を務め、終戦直後、服毒自殺した。
【甘粕事件】
1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災のどさくさに乗じて、9月16日、東京憲兵隊麹町分隊長の甘粕はアナキスト大杉栄伊藤野枝とその甥・橘宗一(7歳)の3名を憲兵隊本部に強制連行の後、虐殺し、同本部裏の古井戸に遺体を投げ込むという、いわゆる甘粕事件を起こした。
事件では憲兵や陸軍の責任は問われず、すべて甘粕の単独犯行として処理され、同年12月8日禁錮10年の判決を受ける。軍事法廷において甘粕は「個人の考えで3人全てを殺害した」、「子どもは殺していない。菰包みになったのを見て、初めてそれを知った」とたびたび証言を変えており、共犯者とされた兵士が「殺害は憲兵司令官の指示であった」と供述しているなど、この結論に現在でも疑義を挙げる人は多い。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
大杉栄(おおすぎさかえ) (1885-1923)38歳で死亡。 (一部抜粋しています)
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甘粕は右ひざがしらを大杉の背にあてて、10分ばかり絞めつづけて、ことこれた大杉をさらに麻縄で閉めてとどめをさした。ついで甘粕は別室に向い、伊藤野枝、少年宗一も絞殺し、屍体は憲兵隊本美の古井戸に投げ込み、石煉瓦や石やごみで埋めた。
もう少し生かしておきたかった快男児の一人である。

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『知識人99人の死に方』 荒俣宏/監修 角川文庫 2000年発行
甘粕正彦(あまかすまさひこ) (1891年(明治24年) - 1945年(昭和20年)) 54歳で死亡。(一部抜粋しています)
甘粕正彦の生涯を眺めてみると、彼のいわゆる”晩年”とは、極端に短かったようにも、また逆に、かなり長かったようにも思われる。
彼は満54歳で自死している。満州国と運命を共にするような死に方だった。
ソ連軍が満州国に侵攻してきたのは、昭和20年(1945年)8月9日のことだった。15日、日本はポツダム宣言を受諾し、連合国に降伏した。18日、皇帝・溥儀(ふぎ)は退式位を執行し、ここに満州国は滅亡した。19日、ソ連が新京(長春)に乗り込んできた。甘粕が自決したのは20日の朝だった。
彼が自殺を考えるようになったのは、おそらく8月9日以降であったろう。そう考えると、彼の”晩年”とは、この日から自決までのわずか10日あまりの間だったと言えないこともない。その直前までの彼は、満州国の第一線に立って活躍していたし、年齢的にも働き盛りの頂点にあったと見られるからだ。
しかし、満州国時代の彼は、すでに早くから自分の後半生を”余生”と見なしていたのではあるまいか。言うまでもなく、彼の生涯の前半期と後半期とを大きく分けたのは、大正12年(1923)の大杉栄虐殺事件である。このとき、甘粕は32歳だった。
関東大震災の混乱のさなか、大杉と伊藤野枝、橘宗一の3人が、憲兵隊によって非道にも殺害された。事件の主謀者として甘粕憲兵大尉は、軍法会議で懲役10年の刑に処せられたが、その3年後には出所を許されたのだった。まもなく彼は新婚の妻を伴ってフランスに渡り、その地で1年半ほどを送る。
昭和4年(1929)、彼は満州に姿を現わす。満州事変(昭和6年)の頃には関東軍の謀略工作に強力し、満州国建国運動に深く関わっていった。その働きがいかに大きかったかは、満州国成立後、彼が民政部警務司長の地位につき、警察権力を一手に掌握するようになったという事実からも明らかだろう。
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満州国が滅んだとき、自分にはもうどこにも行き場がないというのが、彼の実感ではあっただろう。満映の理事長室で青酸カリをあおって、彼はひとり、さっさと自殺してしまった。いさぎよいとも見えるし、身勝手だとも言えそうだ。
あとには、多くの謎だけが残された。大杉事件の真相も、満州での彼の裏面活動の実態も、胸の内に秘めたままの死であった。それらの謎の中から「甘粕」というものが生まれた。その伝説に向けて、今も人々の好奇の視線が集まっている。

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甘粕正彦 Google 検索
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