じじぃの「人の死にざま_1203_内田・吐夢」

内田吐夢 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E5%86%85%E7%94%B0%E5%90%90%E5%A4%A2/28933
東映「血槍富士」名セリフ/片岡千恵蔵・植木基晴(親子共演) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=oJD8agct89g
土(1939) Earth 1/7 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=h98tL2ZdLEo
内田吐夢 画像
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/06/UchidaTomu.jpg/190px-UchidaTomu.jpg
内田吐夢 ウィキペディアWikipedia)より
内田吐夢は日本の映画監督。日本映画の創成期から戦後にいたるまで、骨太な作品を撮りつづけた「巨匠」である。
【経歴】
・1955年(昭和30年)
 『血槍富士』を撮り、監督業に復帰。
・以降、『大菩薩峠』、『宮本武蔵』のような時代劇大作を発表する一方、アイヌの問題を扱った『森と湖のまつり』や、部落問題を底流に描いた水上勉原作のサスペンス『飢餓海峡』など、現代社会の弱者を鋭く照射した作品も発表し続けた。
・『宮本武蔵』の続編で伊藤大輔の脚本を得た『真剣勝負』のロケ中に倒れ入院。いったんは再起し撮影を続行。
・1970年(昭和45年)
 8月7日 - 死去。満72歳。
なお、内田作品は近年海外でも2005年のロッテルダム映画祭で特集上映されるなど、再評価が始まっている。

                            • -

『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
内田 吐夢(うちだ とむ) (1898 - 1970) 72歳で死亡 (一部抜粋しています)
昭和10年代すでに大監督として「人生劇場」「土」「限りなき前進」等を世に出した内田吐夢は、もはや内地での映画製作は絶望的となった昭和20年4月、「満映」で仕事すべく渡満して、敗戦にぶつかり、満映理事長甘粕正彦の自殺にまで立ち合う羽目になった。
その後彼は、何度も帰国する機会はあったのに、なぜか満州にとどまったが、その理由については、「のち、故郷(岡山市)と中国の話はしない、といわれたほどかくしとおした」
とにかく彼は、敗戦前は「日本精神」の権化のごときことを口にしたが、昭和28年やっと帰国したときは、中国の工人帽をかぶり毛沢東思想の信奉者のごとき言動があった。彼が帰国第1作「血槍富士」を作ることができたのは、2年後の昭和30年になってからであった。彼は撮影所であだ名を「巨匠」と呼ばれた。
爾来、急速に吐夢は、ベレ帽にパイプといういでたちに戻ってゆく。
外観の二転三転とは別に、しかし彼が次々に作った映画は「大菩薩峠・三部作」「飢餓海峡」「宮本武蔵・五部作」など、骨太な男性映画で一貫していた。
彼の本心は、ただ映画をとりたい、いつまでも現役でありたい、という望み以外に何もなかったのだ。そのために、帰国直後、それまで8年間も捨てていた妻子に、これからは献身的な夫となり父となると誓ったのに、やがてまた家族を捨てて、ひとり小田原に六帖一間の間借りをするという生活に戻ることになる。彼はあくまで「家庭人」ではなかった。
吐夢は最後まで夫人以外の女性に生ませた子どもの認知問題で心を悩ませていた。
昭和45年4月、彼は「宮本武蔵」の別篇たる中村錦之助主演の「真剣勝負」の撮影にはいってから、急速に衰弱しはじめたが、とみには入院を承知せず、また入院しても病院をぬけ出して、ロケ先の御殿場へ、宙を歩くような足どりでひき返した。
     ・
吐夢はしかし、やがて動けなくなった。巨体が48キロにまでなった。健康のときは化け物のような胃袋を持っていた彼が、食べたいものをメモにして渡しても、それを買ってくると受けつけなかった。しかし女優などが見舞いにくると、その直前に酸素テントをとり払わせ、ベッドにあぐらをかいて呵々(かか)大笑し、見舞客が帰ると気息えんえんと横たわるのを常とした。
結局「真剣勝負」は彼の手では完成せず、昭和45年8月7日夜明け方、「あと10年は生きたい。こんなに頭中に作りたいものがたくさんあるのに」と歎きつつ、死んだ。
彼はその数年前から、胃を病んだり、肺を病んだり、心臓を病んだりしていた。彼自身は最後まで心臓動脈瘤のために入院していると思いこんでいたが、死後解剖されてはじめて前立腺から発生したガンが全身に転移したものであったことが明らかになった。
小田原の部屋に残されていた貯金通帳の残高は、3万円であった。
墓石には彼自身の筆になる「命一コマ 吐夢」の文字が刻まれている。