じじぃの「人の死にざま_466_三原・脩」

三原脩 - あのひと検索 SPYSEE
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1956 日本シリーズ 巨人vs西鉄 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=JtFUy6mhnGA&feature=related
三原魔術 昭和35年・大洋初優勝 1/5 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=t47QTvVT3yg&feature=related
三原脩 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
三原脩は、香川県出身のプロ野球選手(内野手)・監督。巨人総監督退任までは「三原 修」。
見る者の度肝を抜く選手起用・戦術で数々の名勝負を演出、「魔術師」「知将」の異名をとった。2010年現在、監督として1リーグ制時代のリーグ優勝、2リーグ分裂後のセントラル・リーグ及びパシフィック・リーグ両リーグでの日本一両方を経験した唯一の人物。
【エピソード】
水原茂とは武蔵・小次郎にも例えられた永遠のライバルであり、1951年西鉄監督就任後初のキャンプで「我いつの日か中原に覇を唱えん」と第一声を発したとされる。また、1956年からの日本シリーズでの直接対決は「巌流島の対決」と呼ばれた。
流線型打線とともに三原の代名詞となったのが“超二流”。一流ではないが守備や打撃など一芸に秀でた選手を好んで起用していた。西鉄では滝内弥瑞生を代走・守備要員で、河野昭修小淵泰輔を内野のユーティリティプレーヤーとして多用した。また大洋時代は代打の切り札として麻生実男を起用、主砲桑田武に「キミは打率2割5分でいい。そのかわりホームランを打て」と指示するなど、弱小といわれたチームで選手たちの特性を見抜き多彩な選手起用を見せ、大成功を収めた。また、「運」「ツキ」の有無をオーダーに反映することもあり、「ツキ」がある選手は実績にかかわらず起用して、多く成功させている。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
三原脩(みはらおさむ) (1911-1984) 72歳で死亡。 (一部抜粋しています)
戦後、水原の巨人を追われたかたちで西部ライオンズ監督になった三原は、ジャイアンツ打倒を生き甲斐とし、昭和31年から3年連続して日本シリーズで巨人を連覇したのみならず、35年にはそれまで6年間ドンジリであった大洋の監督になってこれまた日本一の座につけ、プロ野球の「知将」だの「魔術師」だのとたたえられた。
各球団を転々したのち晩年は日本ハム球団社長をやったが、糖尿病が持病となり、歩行も不自由な状態になり、昭和59年2月6日午後10時40分、急性心不全で死んだ。
三原と水原茂は生涯のライヴァルであったが、死亡年齢も数えでは同年(満では三原が1歳下)で、いずれも若いころ人並すぐれた肉体を鍛えあげたであろうに、両人とも、当時における男性平均寿命にも至らずに死んだのは、野球の生涯もそれほどラクではないということか。

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三原脩の言葉
「野球は筋書きのないドラマである」

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三原脩 Google 検索
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