じじぃの「昭和29年はこんな時代だった・赤胴鈴之助・七人の侍!時には漫画の話を」

赤胴鈴之助 OP ED 動画 デイリーモーション
http://www.dailymotion.com/video/xgj8k4_yyyyy-op-ed_creation
笛吹童子 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=HM50KyM1X0Q
SEVEN SAMURAI  Akira Kurosawa 七人の侍 黒澤明 1954 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=DLat_w-Zku4
Shane (1953) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=SWdPmapuOd4
赤胴鈴之助:画像/壁紙[アニメ]
http://image.sakuhindb.com/ani_imgj/7_Akadou_20Suzunosuke.html
赤胴鈴之助 ウィキペディアWikipedia)より
赤胴鈴之助』は、福井英一と武内つなよしによる漫画で、ラジオドラマ化や映画化、アニメ化もされた。
【概要】
北辰一刀流千葉周作道場の少年剣士、金野鈴之助の活躍を描く。父親の形見である赤い胴(防具)を着けることから「赤胴鈴之助」と言われる。
読みきり作品である『よわむし鈴之助』を元に1954年、『少年画報』に第1回が掲載されたところで福井が急逝してしまったため、武内が後を継ぎ、見事に人気漫画に育て上げた。
シェーン ウィキペディアWikipedia)より
『シェーン』(Shane)は、1953年、パラマウント映画製作のアメリカの西部劇映画。カラー。原作は1949年に書かれたジャック・シェーファーの小説。
【あらすじ】
流れ者のガンファイター、シェーンがたどり着いたワイオミング州ジョンソン郡の開拓地は、悪徳牧畜業者のライカー一味の暴虐に苦しめられていた。シェーンは、当初ジョー・スターレットらの開拓農民たちから疎まれるが、やがて和解する。
ジョーやその息子ジョーイと友情を結ぶシェーンだったが、ジョーの妻マリアンは彼に惹かれ、またシェーンも彼女に惹かれてゆく。
イカー一味やウィルソンとのガンファイトに、シェーンは勝利する。物陰から彼を狙い撃とうとしたライカーの弟は、追いかけて来たジョーイのとっさの一言で、シェーンに返り討ちにされる。しかし、シェーンもまた撃たれていた。
「シェーン!!カムバック!!」必死でひきとめるジョーイの叫びを背景に、シェーンはワイオミングの山へと去っていった。「グッバイ!シェーン…」。ジョーイの最後の別れの声に送られるように。

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『時には漫画の話を』 川本三郎/著 小学館 2012年発行
少年剣士が登場した! (一部抜粋しています)
赤胴鈴之助」が登場した昭和29年(1954年)といえば、私は10歳、杉並区の阿佐谷で暮らす小学生だった。
その急逝によって作者は竹内つなよしに受け継がれてゆくが、当初は福井英一だった。子供たちのあいだで大人気になっていた柔道漫画「イガグリくん」の作者である。
その福井英一がこんどは少年剣士を描く。3歳年上の兄と共に「赤胴鈴之助」が『少年画報』誌に載った時、真っ先に読んだ。
そして開始早々に福井英一が亡くなったと知った時は、子供心にも驚きだった。
それでもすぐに竹内つなよしにバトンタッチされ、その世界に引き込まれていった。あの頃は、杉並区の住宅地のあちことにまだ原っぱが残って、われわれ子供はすぐにチャンバラごっこに夢中になった。
まだ戦後の貧しい時代だったから玩具の刀を買うわけではなく、原っぱにころがっている竹や棒切れ、銭湯からもらってきた木材の切れっぱし、あるいは近所の家の垣根からこっそり引き抜いてきた竹が刀のかわりになった。
いま振り返ってみると、「赤胴鈴之助」が生まれた昭和29年という年は、映画史に残る時代劇映画が作られた重要な年である。
黒澤明監督の『七人の侍
稲垣浩監督、三船敏郎主演の『宮本武蔵
NHKの人気ラジオ・ドラマの映画化、萩原遼監督、
東千代之介中村錦之助主演の『笛吹童子
日本は昭和20年8月15日の敗戦以来、長く連合軍(実質はアメリカ)によって占領されていた。独立国ではなかった。
連合軍は文化政策の一環として映画によって民主主義を広めようとした。そのために、一方で、映画にキス・シーンを入れることをすすめ、他方で、時代劇を封建的としてその製作に制限を加えた。『忠臣蔵』は、仇討ちの話だから封建的と御法度となった。
占領時代、いわゆるオキュパイド・ジャパンは、昭和27年(1952年)の対日講和条約の発行によって終り、日本は再び独立国家となった。
このあと戦前のように時代劇が自由に作られるようになり、昭和29年の『七人の侍』『宮本武蔵』『笛吹童子』につながっていった。この頃は時代劇の黄金時代といっていい。
当時、小学生の私がいちばん夢中になって観たのは『宮本武蔵』と、そして『笛吹童子』。『七人の侍』は子供には難しかったし、雨のなか泥んこになって戦う場面は、汚いなあという印象だった。
宮本武蔵』は三船敏郎の武蔵が男らしく、またその頃はそんな言葉は知らなかったが「孤高」そのもので、男はひとりで闘うものと心に刻みつけた。
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そしてさらに興奮したのが『笛吹童子』。われわれの世代でこの映画を見ていない者はいないのではと思われるほど大ヒットした。
子供が夢中になった大きな原因は、主演の中村錦之助東千代之介がまだ若く、少年剣士のイメージを持っていたことだ。
それまでの戦前からの時代劇スター、たとえば片岡千恵蔵市川右太衛門月形龍之介らは子供から見れば、おじさん過ぎた。
そこに、中村錦之助東千代之介が現れた。彼らは子供から見れば、お兄さんであり、容易に感情移入出来た。われらの少年剣士だった。
そして、いうまでもなく『笛吹童子』と同じ昭和29年に登場した「赤胴鈴之助」もまた少年剣士の物語だった。
正義感あふれる少年剣士が邪剣をあやつる大人たちと戦う。赤胴鈴之助は、子供にとって夢のなかの分身だった。
いま読んでみると「赤胴鈴之助」は少年剣士の成長の物語、いわゆるビルドゥングスロマンであることがわかる。剣の修業のために旅に出る。武者修行をする。しかも、ただ強くなるためではなく、「心」を磨く。それが、子供の心を強くとらえたのだと思う。
前年の昭和28年(1953年)にアメリカの西部劇『シェーン』が公開され、この映画にも感激したが、アラン・ラッド演じるさすらいのガンマンは、彼を慕う少年に「強く正しく生きるんだ」といった。
あの時代は、「強く正しい」という言葉がいまと違ってまだ輝いていた。子供はそれを自然に心に刻みつけた。

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どうでもいい、じじぃの日記。
http://space.geocities.jp/hhiratsuka2005/
先日、図書館から『時には漫画の話を』という本を借りてきた。「赤胴鈴之助」のことが載っている。
赤胴鈴之助」が登場した昭和29年(1954年)といえば、私は10歳、杉並区の阿佐谷で暮らす小学生だった。
その急逝によって作者は竹内つなよしに受け継がれてゆくが、当初は福井英一だった。子供たちのあいだで大人気になっていた柔道漫画「イガグリくん」の作者である。
この本の著者とじじぃはほぼ同年代だ。(私の方が2歳下)
ふう〜ん。「赤胴鈴之助」の作者が変わっていたのか。「イガグリくん」もよく見たなあ。
赤胴鈴之助」が生まれた昭和29年という年は、映画史に残る時代劇映画が作られた重要な年である。
今の天皇(当時・皇太子明仁親王)と正田美智子さんが結婚され、ミッチー・ブームが起きたのは昭和34年だ。この年を境にして白黒テレビが普及し、時代は大きく変わっていった。
それまでは、ラジオの時代だった。ラジオから流れる相撲の実況放送をどきどきしながら聞いたり、雑誌でも毎月発行される漫画雑誌『少年画報』を楽しみにしていた。
前年の昭和28年(1953年)にアメリカの西部劇『シェーン』が公開され、この映画にも感激したが、アラン・ラッド演じるさすらいのガンマンは、彼を慕う少年に「強く正しく生きるんだ」といった。
あの時代は、「強く正しい」という言葉がいまと違ってまだ輝いていた。子供はそれを自然に心に刻みつけた。
じじぃが映画『シェーン』を観たのは、ずいぶん経ってからだった。
でもあの時代、日本でも、アメリカでも「強く正しい」というのか、「生き生きしていた」時代のような気がする。
すべて、今につながっているといえばその通りなんだろうけど。