じじぃの「人の死にざま_418_片岡・千」

片岡千恵蔵 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E7%89%87%E5%B2%A1%E5%8D%83%E6%81%B5%E8%94%B5/28570/
多羅尾伴内シリーズ2作目「十三の眼」1947年 片岡千恵蔵 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=I4bBFupwtUg&feature=related
赤穂浪士 片岡千恵蔵 三波春夫 俵星玄蕃 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=W30SsGIm6Wg
片岡千恵蔵 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
片岡千恵蔵は、大正・昭和期の俳優。本名は植木正義。戦前・戦後の長期にわたり、時代劇人気を支えた剣戟スターである。
【来歴】
1903年明治36年)、群馬県新田郡藪塚本町(現在の太田市)に生まれ、東京で育つ。
1942年(昭和17年)、映画会社の戦時統合によって大映入りし、阪東妻三郎嵐寛寿郎市川右太衛門と共に大映の「時代劇四大スタア」に数えられた。
また、東宝に移った大河内傳次郎長谷川一夫とあわせて「時代劇六大スタア」とも呼ばれた。大映時代の代表作は『独眼龍政宗宮本武蔵シリーズの『二刀流開眼』『決闘般若坂』『三代の盃』等である。
1947年(昭和22年)、東横映画で、横溝正史原作の「金田一耕助シリーズ」第1作『三本指の男』(原作は『本陣殺人事件』)に出演。以後、『獄門島・前後編』等6本に主演した。
千恵蔵の金田一耕助の扮装は、原作と異なり背広にソフト帽というスマートなスタイルであった。これらの作品は戦後娯楽に飢えていた観客に受け入れられ、いずれもヒット作品となった。また千恵蔵はギャング・アクション映画でも大活躍した。
1948年(昭和23年)、東横映画で囮捜査官の活躍を描いた現代劇『にっぽんGメン』に主演、以後、1963年(昭和38年)の『ギャング忠臣蔵』等々、数々の現代アクション映画に出演、このジャンルでも旗手的存在となり、三船敏郎鶴田浩二石原裕次郎小林旭等の現代アクション映画に引き継がれていく。
1951年(昭和26年)、東映の創立に参加し、東映京都で市川右太衛門とともに重役兼トップスターとして活躍を始める。当時、千恵蔵は京都の山の手(嵯峨野)に住んでいた事から「山の御大」と呼ばれた。(右太衛門は北大路に住んでいたので「北大路の御大」と呼ばれたという。)
1955年(昭和30年)、内田吐夢監督の戦後復帰第1作である『血槍富士』に主演。当作は「ブルーリボン大衆賞」を受賞し、名作として名高い。
1957年(昭和32年)、『大菩薩峠』に主演、全3部作は翌年、翌々年に渡るシリーズとなる。
1960年(昭和35年)、『御存じいれずみ判官』に主演、遠山の金さん役は、戦後時代劇での当たり役となる。同年の『花の吉原百人斬り』も名作に数えられる。
1983年(昭和58年)、腎不全のため死去。東映では彼の長年に渡る多大なる貢献を讃えて「東映葬」を行った。

                                    • -

『20世紀命日大事典』 蕪木和夫/著 風塵社 1999年発行
3月31日−片岡千恵蔵 (俳優)
市川右太衛門と共に東映のチャンバラ映画黄金時代を築いた大スターである。
ドスの効いた低音のセリフまわしと憎いほどかつらがよく似合った時代劇の申し子ぶりとで千恵蔵は近藤勇、机竜之助といった当たり役をモノにしていった。
「いれずみ判官」と「多羅尾伴内」は彼をビッグスターに押し上げた2大代表作といえるだろう。
また、マキノプロから独立し、千恵蔵プロというスタープロダクションを作った(1928年)ことは、その後の石原裕次郎勝新太郎三船敏郎といった役者たちの独立劇へ先鞭をつけたとも言える。
片岡千恵蔵は映画が大衆娯楽の王座に輝いていた時代のスターだった。

                                    • -

『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
片岡千恵蔵 (1903-1983) 80歳で死亡。 (一部抜粋しています)
戦前戦後の時代劇の「御大(おんだい)」の一人、片岡千恵蔵は、昭和57年9月9日、やはり生き残りの御大の一人市川歌右衛門と2人でNHK「この人」に出演した。2人で「侍ニッポン」をデュエットしてみせたりしたが、闊達(かったつ)な右太衛門にくらべて、若い日「明朗時代劇」で売った千恵蔵にはどこか憂愁の翳(かげ)が感じられた。
実は彼はその7月に「肺ガン」の診断を受けていたのである。むろん彼には知らされていなかったが。8月から入院中の身であったのだ。
このテレビ出演のあとも入退院をくりかえし、慈恵医大病院から離れられなくなり、翌58年に入ると口もきけず、やだ紙にみみずのような文字で「南無妙法蓮華経」など書くようになった。
2月13日になって、突然しっかりした声で法華経を唱えはじめ、「バカ騒ぎしなけりゃ棺桶にははいれねぇ、これから伊東へつれてゆけ」といい出した。伊東とは東映の某知人の家という意味であった。そこへ車で運ばれた千恵蔵は、憑(つ)かれたように8時間にわたって自分の人生を語ったが、そのあと20時間も昏睡状態におちた。
そして3月31日午前11時11分に死んだ。肺ガンで入院したのだが、直接の死因は腎不全であった。
一代ほとんどスターで通した千恵蔵は京都の7000坪の本邸をはじめ多くの別邸や店舗その他財を残したが最後の20余年は妻のいる本邸にはよりつかず、名古屋で愛人と暮らし、彼の最後をみとったのもこの愛人であった。しかし彼女には遺骨の一片も与えられなかった。遺骨は名古屋を石のごとき無視して通過し京都へ送られていった。

                                    • -

片岡千恵蔵 Google 検索
http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&q=%E7%89%87%E5%B2%A1%E5%8D%83%E6%81%B5%E8%94%B5&um=1&ie=UTF-8&source=univ&ei=z2O7TKS8FIievgP07625DQ&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=2&ved=0CDUQsAQwAQ