じじぃの「人の死にざま_683_大河内・伝」

大河内伝次郎 - あのひと検索 SPYSEE
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大河内傳次郎 乱斗場面集 動画 YouTube
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Oatsurae Jirokichi goshi [1931] Japanese Silent Movie 1/6 動画 YouTube
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大河内傳次郎 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
大河内傳次郎新字体:伝次郎)は、大正・昭和の映画俳優、時代劇の大スター。本名は大辺男。
当たり役となった『丹下左膳』の「姓は丹下、名は左膳」という決めセリフを独特の発音で言った「シェイはタンゲ、ナはシャゼン」が一世を風靡、後代まで多くの芸人が物まねのレパートリーにする名文句になったことで有名。
【略歴】
福岡県築上郡岩屋村大河内(現・豊前市大河内)に、医者の息子として生まれる。
1925年、日活に移り、芸名も大河内傳次郎と改める。伊藤大輔監督に見出され、1926年『長恨』の主演に抜擢されて注目される。
往時は、バンツマこと阪東妻三郎と並び称されるほどの大スターであった。とくに昭和一桁世代には「最高給俳優」と呼ばれた。また戦前・戦中は、阪東妻三郎嵐寛寿郎片岡千恵蔵市川右太衛門長谷川一夫と共に「時代劇六大スター」と呼ばれた。
極度の近視で、普段は牛乳瓶の底のような度の強い眼鏡をかけていた。しかしこれがかえって大河内の眼に異様な光を与えることとなる。近視のため相手に肉薄して刀を振るうので、迫力ある乱闘が生まれた。そのため相手役の俳優は打撲傷が絶えず、「大河内の殺陣には膏薬代がかかる」とまで言われた。裸眼では足下もよく見えず、『新版大岡政談』の撮影時には乱闘中勢いあまって顔面を泥の中につっこんでしまうほどだった。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
大河内伝次郎(おおこうちでんじろう) (1898-1962) 64歳で死亡。 (一部抜粋しています)
「シェイは丹下、名はシャゼン」で一世を風靡(ふうび)した剣劇俳優大河内伝次郎は、その莫大なギャラを、一生かかって京都小倉山の山荘に投入する以外、これといった道楽もなく、実生活はきわめてまじめな仏教信者であったが、昭和37年1月ごろから体調が悪くなり、7月18日午前、上記の山荘で死去した。病名は胃がんであった。
昭和期のいわゆる「御大(おんだい)」たちはふしぎなことに惜しい俳優順に死んでいった。

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