じじぃの「人の死にざま_444_嵐・寛」

嵐寛寿郎 - あのひと検索 SPYSEE
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鞍馬天狗 角兵衛獅子(1951) 嵐寛寿郎 美空ひばり 月形龍之助 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=I2efVf5a1r4
鞍馬天狗 (071218_0159~01.3GP) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=mkUJ145VKt4
嵐寛寿郎 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
嵐寛壽郎は、日本の映画俳優である。本名高橋照一。
300本以上の映画に出演した、戦前映画界の大衆のヒーロー。剣戟王・阪東妻三郎には三歩下がって道を空けていたものの、押しも押されもせぬ「時代劇」の大剣戟スターである。
日本映画の巨匠の一人・山中貞雄に活躍の場所を与えた点でも記憶される。通称「アラカン」、「天狗のおじさん」。
従妹に女優・森光子、甥にAV男優の山本竜二らがいる。
【来歴】
1903年明治36年)、京都市生まれ。文楽人形遣い・初代桐竹紋十郎の孫。幼くして市内の襟問屋に奉公し、休みの日には尾上松之助の忍術映画、チャップリンキートンの喜劇映画に夢中となる。
のち、チャップリンの「キッド」が「鞍馬天狗」と杉作とのからみに、キートンの無表情さが「むっつり右門」の演技に、それぞれ大きな影響になったと述懐している。
1925年(大正14年)、独立した市川右太衛門の後釜として片岡千恵蔵とともに「マキノ・プロダクション」に迎えられる。このとき、牧野省三から嵐長三郎の名を与えられた。
1927年(昭和2年)、「マキノ御室撮影所」製作の『鞍馬天狗異聞・角兵衛獅子』でデビュー。
以降マキノの看板スターとして、この年、実に20本近い数の映画に出演、「鞍馬天狗シリーズ」のほか『鳴門秘帖』・『百万両秘聞』でもヒットを飛ばす。マキノでの2年間で、アラカンは「鞍馬天狗」を3作演じている。
1928年(昭和3年)、『新版大岡政談 前編・中篇』のニ作で丹下左膳を演じたのを最後に、「マキノ御室撮影所」から独立、「嵐寛寿郎プロダクション(寛プロ)」を設立。独立の理由には、鞍馬天狗を巡るマキノとの軋轢があった。
この独立に際して長三郎の名を返上し、葉村屋の宗家の名跡である「璃寛」からとった「嵐寛壽郎」を名乗り、以来生涯この名で通す。
戦前から戦後にかけ、寛プロ、東亜京都、寛プロ、新興キネマ、日活、大映、フリー、新東宝、フリーと渡り歩いた。当たり役には「鞍馬天狗」と、「むっつり右門」、戦後は「鬼寅親分」などがある。
独立後の半年間で、アラカンは「鞍馬天狗」を2作演じている。
1929年(昭和4年)、「東亜京都」に移り、初演作『新説荒木又右衛門 前篇・後篇』で「荒木又右衛門」を演じる。
同年、『右門一番手柄 南蛮幽霊』で「むっつり右門』役を初演。「東亜京都」での3年間で、アラカンは「鞍馬天狗」を2作、「むっつり右門」を4作演じている。
1963年(昭和38年)、東映東京で『昭和侠客伝』に出演、以後、東映の任侠・ヤクザ路線映画、また松竹や日活のヤクザ・ギャング映画にも多数出演することとなる。
同年、『十三人の刺客』で片岡千恵蔵と共演。同作は「集団抗争劇」を描き、傑作の呼び声も高い。
1965年(昭和40年)、『網走番外地』で「八人殺しの鬼寅」を演じ、同シリーズを通しての当たり役となる。
1977年(昭和52年)、『男はつらいよ 寅次郎と殿様』に出演。「殿様」と呼ばれる風格溢れる老人を演じた。
1980年(昭和55年)、10月21日死去。77歳。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
嵐寛寿郎(あらしかんじゅろう) (1903-1980) 77歳で死亡。 (一部抜粋しています)
ラカンの「鞍馬天狗」は、昭和2年、24歳のときの「鞍馬天狗余聞・角兵衛獅子」にはじまり、昭和31年、53歳のときの「疾風! 鞍馬天狗」に終わった。その数40本。原作者の大仏次郎はチャンバラばかりやるアラカン鞍馬天狗に大不満であったが、しかしアラカン以外の俳優による鞍馬天狗はすべて成功しなかった。
颯爽たる鞍馬天狗を演じながら、しかしアラカンははじめから人生破滅型の俳優であった。
「剣をとって立ちまわれば、これほどみごとな役者はいない。ところが、世間とのつき合い、実生活ときた日には、これほど不器用に立ちまわる人も、ちょっとまれやないか。寛プロ時代から一貫して、この人は損のいく方へ、損のいく方へと立ちまわって来たんや。破産したり、ルンペンしたり、悪い奴にだまされたり、せっかく籍を入れてやった芸者に離婚訴訟起こされて追ン出されたり、かせいだ金は惚れた女やら、一緒に仕事をした連中やらにことごとくくれてやって人生70無一文」(マキノ雅弘・談)
ラカンの最後の13年は、40も若い、5度目とか7度目とかいわれる妻との2人暮らしで、彼が晩年、前半生とは別人のようなオカシ味のある脇役として映画やテレビに出たのも、その若い妻にすこしでも金を残してやろうとする心からであったといわれるが、その妻とも、死ぬ2ヵ月前に離婚した。
そのいきさつは、映画の上での快男児、実生活での快男児とはおよそ縁遠いわびしさに満ちたものであった。
昭和55年夏、彼は脳血栓で倒れ、自宅で療養中、8月14日、妻の久子が故郷の姉一家を招き、外へ夕食に連れ出した。トイレに立つにも妻の手をかりなければならないアラカンは、それでイライラした。みなが帰宅してからアラカンは、「ここは旅館やないぞ」とイヤミをいい、口論の果てに妻に「そんならお前も出てゆけ」とどなったあげく、自分のほうからヨタヨタと出ていった。
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この事件で、13年間の夫婦の縁はあっけなく切れた。人間の世界には、腹立ちまぎれの一語が決定的な破局を呼ぶことがある。
位後彼は、59になる従妹の世話を受ける身となったが、9月に心不全を起こし、10月21日午後1時ごろふたたび発作を起こし、午後7時10分に死んだ。
「女と別れるたびにスッテンテン、さるまたにシャツ1枚、車で逃げました。・・・・」と、かってひょうきんに語ったアラカンだが、最後の妻は、妻のほうが身体一つで出てゆく始末となり、葬式には彼女はついに姿を見せなかった。映画関係者もほとんど来ないわびしい葬式であった。

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