大佛次郎 - あのひと検索 SPYSEE
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大佛次郎記念館 動画 YouTube
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天皇の世紀−01黒船渡来 動画 デイリーモーション
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大佛次郎 ウィキペディア(Wikipedia)より
大佛次觔は、日本の作家・小説家。本名:野尻清彦。
『鞍馬天狗』シリーズの作者として有名で、現代小説、歴史小説、ノンフィクション、さらには新歌舞伎や童話などまでを幅広く手がけた。
【鞍馬天狗 誕生秘話】
大震災前は鎌倉の自宅から東京の外務省に通勤しながら、ロマン・ロランやアンリ・ド・レニエを翻訳したり、海外小説の翻案をしたり、バタくさい小説を書いたりと、多忙の日々を送っていた。震災後、筆だけで生活していけるだろうと外務省を辞めたはいいが、さっぱり仕事の依頼がない。そこで、翻訳が縁で知り合った鈴木徳太郎に仕事をもらおうと、彼が勤務する博文館を訪ねると、鈴木は自らが編集長を勤める娯楽雑誌『ポケット』で、髷物を書いてくれるなら、その出来次第で掲載してもいいという返事をくれた。そこで次郎は急遽、書店で『ポケット』を購入して、雑誌に掲載された作品をお手本にしながら、エドガー・アラン・ポーの『ウィリアム・ウィルソン』を翻案した『隼の源次』を書き上げて再訪すると、鈴木は合格点をつけてくれたばかりか、「また別の髷物をよろしく」とその場で次作の依頼までしてくれた。
そこで大佛は謡曲『鞍馬天狗』をヒントに鞍馬天狗というヒーローを考え出し、『鬼面の老女』を書き上げる。大佛本人はこの一作で鞍馬天狗とはおさらばするつもりだったが、鈴木は今度は「『鞍馬天狗』の連載をやってみないか」と持ちかける始末。そこで生活のために連載を始めた。この時、大佛27歳。この2年後には『東京日々新聞』に『赤穂浪士』の連載を開始。全国紙の看板でもある連載小説を20代で依頼されたのはこの大佛が初めてである。
『鞍馬天狗』と『赤穂浪士』は共に映画化されたが、『鞍馬天狗』はアラカンこと嵐寛寿郎が戦前から戦後にかかて40本以上の作品に主演する大ヒットシリーズとなった。
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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
大仏次郎(おさらぎじろう) (1897-1973) 76歳で死亡
大仏次郎は、70歳の昭和42年1月から「朝日新聞」にライフワーク『天皇の世紀』の連載を開始した。
1回分5枚書くのに、毎日8時間から10時間をかけるという労作で、夕刻書斎を出て茶の間に現れるときの大仏の顔は鬼の面のようで、夫人さえ声をかけられないほどであった。
が、翌昭和43年の春、下腹部に痛みを感じ、築地の国立がんセンターに入院し、手術を受けた。病名を医者はいわず、彼のほうも訊こうとはしなかったが、彼はすでに肝臓ガンにとりつかれていたのであった。
それから間歇(かんけつ)的に入院しながら、彼は『天皇の世紀』の仕事をつづけたが、ついに昭和47年5月、本格的に入院しなければならない状態になった。しかし彼はその後もベッドの上に座り、ときには仰向けに寝たまま、脊髄の激痛に耐えながら、重い本を両手でかかえ、細い指でページをめくり、マス目のない奉加帳にフェルトペンで稿をつづけた。
「大仏さんから最も深い感動をうけたのは、死の近づいて来る病床で、最後の力をふりしぼって『天皇の世紀』の原稿を書いていた。あのすさまじい気力である。それは文字どおりの死闘であった」
と、友人の記者門田勲は書いている。
死の2ヵ月前に彼は兄の野尻砲影に自負の手紙を書く。
「(天皇の世紀は)日本の小説家程度の頭では、理解困難なのです。百年後には日本文学で、太平記や平家物語より上の扱いを受けましょうか」
彼は幸福な作家であった。
大仏は「元気なときに安楽死の方法を考えとくんだった」と歎いたほど苦しいときでも、ベッドに結んである綱で身を起し、人の手をかりないで、病室の隅のトイレにいった。
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その超人的な気力もついに尽きるときが来た。4月15日、彼は連戦1555回日の原稿を書いた。それは、北越戦争で河井継之助が死ぬところで、
「そうこうして、いよいよ2歩3歩かつぎ出すと、私をお呼びになって『血が沢山出たから顔の色は悪いかも知れぬが生命には別状なかろう。然し足は役に立つまいてや』とおっしゃった。又2歩3歩歩き出すと、寅(とら)、寅と私をお呼びになって『人が聞いても傷は軽いと言っておけよ』とお言付けになりました。この時は思わず涙が出て、何ともいえない感慨に打たれました」
という文章で終り、その次に「病気休載」と書いた。彼の「傷」は軽くなかった。
翌16日、担当の記者櫛田克己にこの原稿を渡すとき、大仏の眼に涙があふれていた。
その日、ノートに彼は「……これだけ充実せる仕事のあと感情人の知らぬところならん。(中略)今となってみれば、予は幸福につつまれ来たり。落日の最後に到りその味一層深し」と書いた。
総計7775枚に及ぶこの未完の『天皇の世紀』の最終回が「朝日」紙上に載ったのは、4月25日のことである。その日のノートに彼は「新聞の掲載今日の夕刊限である。ついでおいとまできれば理想的なり。みんな、しんせつにしてくれてありがとう。皆さんの幸福を祈ります」と書いた。これが最後の文章となった。
以後、彼の気力はがっくり落ちたようであった。しかし最後まで冷静に自分の病状を眺め、看護婦に、「連休あけまで持つかな」とひとごとのようにつぶやいた。そして死の直前まで、うつらうつらしながら、まだ字を書くように指を動かしていた。
4月30日午後2時、連休ににぎわう銀座のどよめきが聞こえる築地の国立がんセンターで大仏次郎は息をひきとった。
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