じじぃの「人の死にざま_641_源・義経」

源義経 - あのひと検索 SPYSEE
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鵯越(唱歌、ひよどりごえ) 動画 YouTube
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義経英雄伝 源義経 那須与一 動画 YouTube
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義経英雄伝 「奥州平泉」 HD高画質 動画 YouTube
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源義経物語
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源義経 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
源義経は、平安時代末期の武将である。鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟。仮名は九郎、実名は義經(義経)である。
河内源氏源義朝の九男として生まれ、幼名牛若丸(うしわかまる)と呼ばれた。平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に奥州平泉へ下り、奥州藤原氏の当主藤原秀衡の庇護を受ける。兄頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、その最大の功労者となった。その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によってその怒りを買い、それに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼ったが秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主藤原泰衡に攻められ衣川館で自刃し果てた。
その最期は世上多くの人の同情を引き、判官贔屓(ほうがんびいき)という言葉、多くの伝説、物語を産んだ。
一ノ谷の戦い
一ノ谷の戦い(いちのたにのたたかい)は、平安時代の末期の寿永3年/治承8年2月7日(1184年3月20日)に摂津国福原および須磨で行われた戦い。治承・寿永の乱源平合戦)における戦いの一つ。
2月6日、福原で清盛の法要を営んでいた平氏一門へ後白河法皇からの使者が訪れ、和平を勧告し、源平は交戦しないよう命じた。平氏一門がこれを信用してしまい、警戒を緩めたことが一ノ谷の戦いの勝敗を決したとの説がある。
迂回進撃を続ける搦手軍の義経鵯越(ひよどりごえ)で軍を二分して、安田義定多田行綱らに大半の兵を与えて通盛・教経の1万騎が守る夢野口(山の手)へ向かわせる。義経は僅か70騎を率いて山中の難路を西へ転進した。
平家物語』によれば、義経の郎党の武蔵坊弁慶が道案内を探し、猟師の若者がこれを引き受けた。義経はこの若者を気に入り、郎党に加えて鷲尾三郎義久と名乗らせた。鷲尾義久が鵯越は到底人馬は越えることのできぬ難路であると説明すると、義経は鹿はこの道を越えるかと問い、鷲尾義久は冬場に鹿は越えると答えた。義経は「鹿が通えるならば、馬も通えよう」と兵たちを励ました。
難路をようやく越えて義経ら70騎は平氏の一ノ谷陣営の裏手に出た。断崖絶壁の上であり、平氏は山側を全く警戒していなかった。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
源義経(みなもとよしつね) (1159-1189) 30歳で死亡。 (一部抜粋しています)
義仲を滅ぼして2年後、義経もまた奥州に落ちてゆく身となっていた。
平泉(ひらいずみ)にのがれた義経を庇護(ひご)した藤原秀衛(ひでひら)が死ぬと、その子泰衡(やすひら)は頼朝を怖れて義経を襲撃した。文治5年4月29日午前10時ごろである。
平泉中尊寺東南の丘、高館に義経はたてこもり、弁慶以下の家来は死闘した。
満身血染めになった弁慶が、いちど今生(こんじょう)の別れを惜しみ、持仏堂にいた義経のもとに馳せつけると、義経法華経を読誦(どくじゅ)していて、「もう少しだから、読み終えるまで頑張れ」と命じた。「さん候」と弁慶はまた駈け出していって、大薙刀(おおなぎなた)で荒れ回った。「強い。強くなければ弁慶になれるものではない」と、大仏次郎は『義経の周囲』でユーモラスに書いている。
「敵も味方も討死すれども、弁慶ばかりはいかに狂えども死なぬは不思議なり・・・・・鎧(よろい)に矢の立つこと数を知らず、蓑(みの)を逆さまに着たるようにぞありける」(『義経記』)
そして彼は、衣川の河原に薙刀を突き立て、敵をにらみつけたまま立往生した。
持仏堂の義経は、鞍馬山からもらった三条小鍛冶の刀で腹を切り、奥方に落去を勧めたが、奥方はきかず、4歳の女児もろとも、堂に火をかけて、炎の中に最期をとげた。
義経が壇ノ浦で平家を亡ぼしてから4年目のことである。
その首は美酒をいれた黒漆(くろうるし)の櫃(ひつ)にひたされて鎌倉へ送られた。しかし彼の生存を夢みる「義経伝説」はながく奥州に残った。
わずか3ヵ月後の7月、頼朝は泰衡討伐の大軍を起し、愚かなる泰衡は平泉に火をかけて逃亡したが、9月3日、その家来河田次郎に裏切られて殺された。
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奥州藤原氏も、その栄華の都もここに秋風の中に煙となった。

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