じじぃの「人の生きざま_201_森・光」

森光子さん葬儀:女優の八千草薫さんら2300人が参列 2012年12月7日 毎日jp
11月10日に92歳で亡くなった女優の森光子(本名・村上美津)さんの葬儀が7日、東京都港区の青山葬儀所で営まれた。女優の八千草薫さんや三田佳子さん、赤木春恵さん、タレントのビートたけしさんや歌手の近藤真彦さんら約2300人が参列し、舞台「放浪記」2017回出演の金字塔を打ち立て、国民栄誉賞も受賞した大女優の死を悼んだ。
http://mainichi.jp/select/news/20121208k0000m040011000c.html
たけし思い出明かす、森さんが母の弔問「急に来た」 2012.11.19 MSN産経ニュース
ビートたけし(65)が17日、TBS情報番組「情報7days ニュースキャスター」の生放送で森光子さんの思い出を語った。たけしがコメントしたのは初めて。
たけしは「うちのおふくろが死んだとき、急に来たの、うちに。お線香をあげて帰った。驚いたね」と振り返った。1999年8月にたけしの母、北野さきさんの訃報を知った森さんはアポなしで弔問に訪れ、霊前に手を合わせたという。
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/121119/ent12111906340000-n1.htm
森光子 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E6%A3%AE%E5%85%89%E5%AD%90/17623
さようなら、森光子。 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=C4sI2G04Ypc
昭和56年 放浪記 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=rZWDHJcM4QA&hl=ja&gl=JP
森光子 ウィキペディアWikipedia)より
森光子(もりみつこ、本名:村上美津、1920年大正9年)5月9日 - 2012年(平成24年)11月10日)は、日本の女優、歌手。京都府京都市出身。血液型B型。
京都府立第一高等女学校(現京都府立鴨沂高等学校)中退。日本俳優連合名誉副会長、第6代日本喜劇人協会会長、フジテレビジョン番組審議会名誉顧問。国民栄誉賞受賞。栄典は従三位・勲三等・瑞宝章紫綬褒章文化勲章文化功労者・東京都名誉都民・京都市市民栄誉賞・京都市名誉観光大使
俳優の嵐寛寿郎の従妹である。長らく嵐寛寿郎の姪で1923年生まれだとしていた。芸名は寛寿郎の母(伯母)から、女優の森静子と伯母の旧姓・森端にちなんで「森」、本名の美津より「光子」となった。

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文藝春秋 創刊90周年記念号
激動の90年、歴史を動かした90人 「森光子 『あやちゃん』との70年」 【執筆者】赤木春恵(女優) (一部抜粋しています)
「あやちゃん……いつも呼んでいるからそう呼びます。(中略)早いもので、あやちゃんとは戦争中に兵隊さんの慰問で一緒になった頃から、70年来のお付き合いです。戦争のつらい経験を乗り越えてきたからこそ、ここまで頑張ってこられました。いつも2人で支え合ってきたわね。(後略)」
2011年8月、森光子さんから、私が引退を決めた舞台の千秋楽にいただいた手紙です。昔から”みっちゃん” ”あやちゃん”と呼び合っていた私たちは女優同士ではなく、本名の村上美津(みつ)と小田章子(あやこ)としてのつきあいでした。出会いは昭和15年の晩秋。慰問団の移動用トラックに黒のワンピースに黒のチュール付きトーク帽を被った森さんがいました。松竹の新人女優だった私にとって、4歳年上ですでに新興キネマで活躍していた彼女は大先輩。会釈をして名前を名乗るのがやっとでした。深い交流が始まったのは、終戦後しばらくたってから。大阪の放送局でラジオの公開録音の仕事をしていた私の目に、消息不明だった森さんの姿が映ったのです。亡くなったという噂も流れていたので、はじめは幽霊かと思いましたが、本物だとわかったときはうれしかったですねぇ。
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森さんは私と違って新しいものにどんどん挑戦する人だったので、NHKでテレビドラマの実験放送が始まると、積極的にテレビの仕事をやるようになり、瞬く間に大阪で知られる存在になりました。昭和33年、中田ダイマル・ラケットさんとのコメデッィタッチの舞台「あまから人生」に出ていた森さんは、後に「放浪記」の脚本・演出を手掛ける菊田一夫先生に目に留ったのです。ある日、私は森さんから「菊田先生に上京するよう誘われたけれど、どうしようかしら」と相談を受けました。本心では行くと決めていたけれど、仲の良かった私への気遣いで事前に相談してくれたのだと思います。もちろん私も勧めましたけどね。
上京した森さんはテレビディレクターの岡本愛彦さんと結婚しました。2人は大阪にいた頃からの知り合いで、実は「あの人、いいじゃないの」と森さんに勧めたのは私です。私が自宅のローンに苦労していたときにテレビ局との契約金の小切手をそっと持って来てくれたり、娘が生まれたときに乳母車をプレゼントするために舞台からかけつけてくれたりと、姉のような存在になっていた彼女にも家庭を持ってほしいという思いが私にはありました。彼がドラマ「私は貝になりたい」で芸術祭賞を受賞したときには、京都まで2人で会いに来てくれました。賞金で買ってもらった友禅の着物を着た森さんはとても幸せそうでした。皮肉なことに「放浪記」がスタートした2年後、2人は離婚。ヨチヨチ歩きの私の娘を抱き上げた2人の写真は今でも家にあります。
昭和40年、主人の転勤で私もようやく上京しました。森さんは、「もうちょっと早く東京に出てくれば、もっと早く伸びる人だったのに」とよく言われました。仕事一筋の彼女から見ると、のんびり屋の私がはがゆかったのでしょう。そんな私の背中をいつも押してくれていたと感謝しています。同じ女優でも私たちの歩み方は全然違いました。彼女の仕事に対する情熱や努力は並大抵なものではありません。平成17年に文化勲章までいただいたのですから、望みは果たせたと思っていたのではないでしょうか。
筆まめな森さんとは、互いの近況をよく手紙や直筆FAXでやりとりしていました。芸術座の仕事で私が帝国ホテルに泊っていると、よく遊びにも来てくれましたね。ツインベッドに隣り合わせで横になってマッサージをしてもらい、森さんの大好きなお肉をルームサービスでいただいて……。
いまも浮かぶのは、紅白歌合戦の司会をしていた頃、60代半ばの森さんです。若い頃よりどんどんきれいになっていくから不思議でした。今、映画の仕事をしているのですが、森さんにも観てほしかった。森さんは「私、死なない気がする」と言っていたのに……。でも森さん、いえみっちゃんは、これからも私の一番大事な親友ならぬ”心友”です。

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