じじぃの「人の生きざま_135_山田・五十鈴」

山田五十鈴さんの通夜に600人 東京・青山葬儀所 2012年7月11日 朝日新聞デジタル
9日に95歳で亡くなった女優の山田五十鈴さんの通夜が11日、東京都港区の青山葬儀所で営まれた。市村正親さんや草笛光子さんら親交のあった芸能関係者やファン約600人が弔問に訪れ、映画、演劇、テレビと様々な舞台で長く活躍した大女優を悼んだ。
俳優の高嶋政伸さんは「ステージの横で出番待ちをしていた先生が、僕の手を握って『心は温かいのに手は冷たいのね』とおっしゃった言葉と、手の感触が忘れられません」と涙ながらに語った。
6月末にお見舞いに行った俳優の松井誠さんは「お声は聞けなかったが、手を握ってずっと見つめていらっしゃいました。『恋人役をしよう』と申し上げたらうなずかれていました」と振り返った。
http://www.asahi.com/national/update/0711/TKY201207110636.html
山田五十鈴 - あのひと検索 SPYSEE
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"冥土の鈴か、地獄花 殺しのテーマ" おりく 追悼 山田五十鈴さん 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=kPfNP2GXTU8&feature=related
東京暮色〜小津安二郎1957 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=1hrEsB2ySjs&feature=related
山田五十鈴 ウィキペディアWikipedia)より
山田五十鈴(やまだいすず、1917年2月5日 - 2012年7月9日)は、日本の女優。大阪府大阪市中央区(旧大阪市南区千年町)出身。本名:山田 美津。ニックネームは「ベルさん」。戦前から戦後にかけて活躍した、昭和期を代表する日本の大女優の一人である。女優として初めての文化勲章を受章した(ただし、受章辞退者を含めれば杉村春子が初)。
【来歴・人物】
1917年(大正6年)に新派劇俳優の山田九州男の娘として誕生した。幼少時から常磐津、清元、舞踊などを習っていた。1930年(昭和5年)に日活に入社し『剣を越えて』で大河内傳次郎の相手役としてデビュー。以降伊藤大輔監督の『素浪人忠弥』『興亡新撰組』、伊丹万作監督の『国士無双』など多くの日活時代劇作品に出演し人気を高める。1936年(昭和11年)に溝口健二監督の『浪華悲歌』『祇園の姉妹』への出演により第一線女優としての地位を確立し、東宝へ移籍してからは、長谷川一夫との共演作に数多く出演した。
私生活では4度の結婚・離婚を経験。女優・瑳峨三智子は、最初の夫で俳優・月田一郎との間に生まれた一人娘である。が、瑳峨は自分を棄てた山田を憎み、撮影所で会ったときも母のことを「山田さん」と呼んでいたとされる。そのわだかまりは、瑳峨が山田より先に死を迎えるその日までついに消えなかった。また1950年(昭和25年)には加藤嘉と再婚したが3年で離婚、下元勉とも結婚歴があった。一方、花柳章太郎衣笠貞之助と不倫関係になったこともあった。
2012年7月9日、多臓器不全により東京都稲城市内の病院で死去、95歳没。
東京暮色 ウィキペディアWikipedia)より
『東京暮色』(とうきょうぼしょく)は、小津安二郎監督による1957年の白黒映画。製作は松竹大船撮影所。日本では同年4月30日に松竹の配給で公開された。英語題名は『Tokyo Twilight』。1957年度キネマ旬報日本映画ランキング第19位。小津にとっては最後の白黒作品(次回作は『彼岸花』)であり、戦後期の名女優、山田五十鈴が出演した唯一の小津作品でもある。
【解説】
『東京暮色』はジェームズ・ディーンの代表作であるハリウッド映画『エデンの東』(1955年)の小津的な翻案とされる。どちらも妻が出奔しているが、『エデンの東』では兄弟だった子供たちが姉妹に置き換えられている。次女明子役に小津は当初岸恵子を想定していたが、『雪国』の撮影が延びてスケジュールが合わなくなったため、有馬稲子がキャスティングされた。

本作は戦後の小津作品の中でも際立って暗い作品である。内容の暗さもさることながら、実際に暗い夜の場面も多く、明子役の有馬稲子は全編を通じて笑顔がない上に物語中で非業の死を遂げる。このような内容に、共同脚本の野田高梧は本作に対して終始批判的であり、脚本執筆でもしばしば小津と対立、完成作品に対しても否定的だったとされる。小津当人は自信を持って送り出した作品だったが、同年のキネマ旬報日本映画ランキングで19位であったことからわかるように一般的には「失敗作」とみなされる。

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週刊新潮 7月26日号
山田五十鈴」と「原節子」の「東京暮色」異聞 (一部抜粋しています)
昭和を代表する大女優が7月9日、この世を去った。山田五十鈴、享年95。1930年に13歳でデビューし、戦前すでにトップの位置を占めていた山田だったが、ほぼ同時期にスター街道を突き進んだ女優がいる。3歳下の、原節子である。
意外なことに、この2人はの共演はたった4作品しかない。そのうち3作は戦前のもので、残るひとつが57年公開の『東京暮色』。小津安二郎監督作品だ。
「この作品は、小津監督自ら”まともな芝居をぶっつける”と語ったように、それまでの小津調とは違うものを撮ろうと企図したものでした」(日本映画史研究家)
そこで40歳の山田、小津映画初登場となる。夫と幼い姉妹を捨てて男と出奔した母親、というのが役どころ、成長した長女が36歳の原節子である。脂の乗り切った頃の2人だが、
「この山田の役、あまりにも生々しいのです」(同)
山田は最初の結婚で生まれた娘とは、離婚の時に元夫の母親に押しつける形で別れている。のちに女優となる瑳峨三智子である。
「自分が捨てた娘との初共演を果たしたのが、前年の56年。『東京暮色』の役は、山田の実人生とダブるのです」(同)
さて自分の出目を疑う次女・有馬稲子は母と再会した後、自身の堕胎も絡んで自ら命を絶つ。喪服姿で山田のところに乗り込み、妹が死んだと告げる原の毅然たる姿は、やはり美しい。
「”大根”と言われることのある原でしたが、この作品では陰影のある演技を観せてくれました。でもそれも、山田五十鈴のゾクゾクッとするような演技力が触媒になっています」(同)
小津作品の中では評価の低い『東京暮色』だが、2大女優の特色は、名匠の手で存分に発揮されたのだ。
その後、原節子は63年の小津監督の死亡以降、”永遠の処女”のまま姿を消す。一方山田は、映画のラストのごとく、実娘の瑳峨と死に別れ、天涯孤独のまま人生を終えた。

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