じじぃの「人の死にざま_915_山中・貞雄」

山中貞雄 - あのひと検索 SPYSEE
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丹下左膳餘話 百萬両の壺(不朽の名作) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=dzN6UGPKJo8
【映画】人情紙風船 15-1 ニコニコ動画
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2800225
山中貞雄 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
山中貞雄は、日本の映画監督、脚本家である。京都府生まれ(高知という説もあり)。
【夭折した天才】
1930年(昭和5年)、嵐寛寿郎が東亜キネマに招かれると、山中を含む旧寛プロのメンバーも参集した。嵐は山中のシナリオを読んで天才だと評した。一連の「むっつり右門」シリーズの脚本でその真価を確信した嵐は1932年(昭和7年)、長谷川伸の戯曲を脚色した『磯の源太 抱寝の長脇差』を監督第1作として発表させる。この作品が映画評論家岸松雄の目にとまり大絶賛されたことで注目が集まり、その結果、処女作にしてその年のベストテンに名を連ね、山中は22歳の若さで日本映画界の巨匠の仲間入りをした。
翌年に、第二次寛プロから日活京都撮影所へ移籍。以降、若き天才監督の名前をほしいままに、『盤嶽の一生』、『街の入墨者』を発表。
【山中の遺産】
5年間の監督生活で発表した監督作品は、全26本(応援監督2本含む)であるが、戦時中のフィルム不足や国策映画製作のために既存の作品フィルムが使い回された事などで原版が消滅、もしくは戦災で焼失するなどし、まとまった作品として現存するのは『丹下左膳余話 百萬両の壺』、『河内山宗俊』、『人情紙風船』の3作品のみである。これらも戦後公開版のため、オリジナルの尺・編集であるかどうかは定かではない。『丹下左膳余話 百萬両の壺』は占領軍下の検閲によってチャンバラ場面が削除されたようである。映画評論家の滝沢一によると、『河内山宗俊』には、ラストで大立ち回りがあったという。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
山中貞雄(やまなかさだお) (1909-1938) 29歳で死亡。 (一部抜粋しています)
「最初この男に会うたとき、マキノ正博監督のすいせんやゆうけど、才能あんのかいなと思うた。ぼうようとしとるんだ。スローモーションですねん。不精ひげを生やしてな、ドテラ着て会社にくる。タバコの空缶、チェリーやったかいな、ドテラ着て帯にくくりつけとる。それに灰たたきますねん、ポンポンと。(中略)コジキやでほんまに。シラミ湧いとるやろ、何とかしてやれと、洋服を買うてやったら、たちまち質に入れて、ドテラをまた着てきよる、往生をしたんダ。ところが、シナリオを見てたまげた。二度びっくりや、これ天才やないか」
昭和7年彼の第一回監督『抱寝の長脇差(ながどす)』主演の嵐寛寿郎はこう語る。(竹中労『聞書アラカン一代、鞍馬天狗のおじさんは』)
時に山中貞雄は23歳であった。以後『盤獄の一生』『国定忠治』『丹下左膳、百万両の壺』『街の入墨者』『河内山宗俊』等、映画史に残る名作を世に送り出した山中は、彼の最後の作品となった『人情紙風船』封切りの日、昭和12年8月25日、召集令状を受けた。その年の7月7日から日中戦争が始まっていたのである。
嵐寛寿郎は言う。
「京都の桜屋という東山の旅館で壮行会がありまして、もちろん顔を出しました。山中泣きよりました。階段から転げ落ちるほど酔うて、『おれ戦争に行ってどないするんや、要領悪いさかいすぐ死ぬわ』とゆうて泣きよった」(同上書)
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またなみはずれてアゴの長いこの天才を惜しむカツドウ屋の間には、彼のアゴにとどくような長い革紐のついた軍帽がないので即日帰郷になった、という噂もながれた。
が、山中は陸軍歩兵伍長として、10月8日にはすでに大陸の戦場めざし、神戸を出港する輸送船上にあった。
彼の残したノートには「バンザイを叫ぶ人の悲劇、叫ばれる奴の悲劇。――喜劇かも知れない」と、ある。
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昭和13年4月、徐州大会戦に参加するにあたり、彼は遺書を書いた。
「陸軍歩兵伍長としてはこれ男子の本懐、申し置く事なし。日本映画監督協会の一員として一言、『人情紙風船』が山中貞雄の遺作ではチトサビシイ」
6月、中国軍は黄河決壊作戦に出て、山中は――軍曹に上がっていたが――濁水の中を這いまわったためか、劇症の急性腸炎にかかり、7月19日、野戦病院に入院するのやむなきに至った。
9月、開封野戦病院に転送されてから、いちじ経過良好に見えたが、「同月十七日午前六時三十分突如悪化シ、脈拍欠滞シ顔面蒼白トナリ、虚脱状態ニ陥リ応急処置モ奏功セズ、昭和十三年九月十七日午前七時遂ニ死亡」(陸軍軍医中佐木村安金による「死亡証明」)
戦争が若くして奪い去った最も痛嘆に値する天才の一人。
昭和50年に京都太秦(うずまさ)の映画村に「映画の殿堂」が作られたとき、映画監督として第一回の殿堂入りを果たした5人の中、内田吐夢溝口健二伊丹万作小津安二郎らの巨匠とならんで弱冠山中貞雄の名があった。

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