丹下キヨ子 - あのひと検索 SPYSEE
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日曜娯楽版 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=QYZFKUw4hXs
森信・江利チエミ・丹下キヨ子・ 爆笑画像館
NHK紅白歌合戦ヒストリー
年末の恒例番組 「NHK紅白歌合戦 第2回 紅組司会=丹下キヨ子 白組司会=藤倉修一アナウンサー
http://www1.nhk.or.jp/kouhaku/history/history_02.html
丹下キヨ子 ウィキペディア(Wikipedia)より
丹下 キヨ子(たんげ きよこ、1920年(大正9年)1月2日 - 1998年(平成10年)5月4日)は昭和に活躍した歌手、女優。本名:小山キヨ
【経歴】
1920年(大正9年)1月2日東京市浅草区生まれ。日劇ダンシングチーム(NDT)出身。三木鶏郎のグループにも参加。「僕は特急の機関士で」、「ブギウギ列車」等のヒット曲がある。
1952年(昭和27年)、第2回NHK紅白歌合戦の紅組司会者にもなる。 1950年代から70年代にかけて、東宝、新東宝、日活、東映などの映画に数多く出演。 テレビでも活躍し、『日曜娯楽版』、『渥美清の泣いてたまるか』、『23時ショー』、『だから大好き!』(ジロウの母)、『独占!女の60分』 等に出演、同年代の大物女性タレントである清川虹子、水の江瀧子らと同様、歯に衣着せぬ毒舌を展開しコメンテーターとしても活躍、長らく芸能界の一線で活躍を続けた。また一時期はブラジルで実業家としても活躍していた。
1998年(平成10年)5月4日、千葉県浦安市の自宅で心不全のため死去。78歳没。
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『逢えてよかった!』 永六輔/著 朝日新聞社 1995年発行
丹下キヨ子さん――手紙の通り「きれいに消える……」 (一部抜粋しています)
丹下キヨ子さん、お元気でしょうか、それとも……。
僕の名前を初めて活字にして下さったのが丹下さん。日劇ダンシングチームからNHKの『日曜娯楽版』。迫力のある歌い方で人気があった。
当時『スクリーン&ステージ』という新聞があり、インタビュアーのやなせたかしさんに丹下さんが「永六輔という学生がいいコメントを書いている」と発言したのが活字になり、自分の名前を初めて活字に見た時のうれしかったこと。
あのころの放送台本はすべてガリ版といわれた謄写版印刷(今はワープロコピー)。それだけに自分の名前が活字になったことは忘れられない。
その丹下さんお縁で、SKDの水の江滝子さん、宝塚の橘薫さんというレビューの大スターと仕事が出来たのも懐かしい。丹下さんが『日曜娯楽版』をやめて新人歌手の宮城まり子さん、楠トシエさんが参加してきた。
歌はこの2人に教わったが、「冗談スリラー」というコーナーの悲鳴が丹下さんから僕に替わった。トリローさんの合図でギャーッと叫ぶのが僕の初放送になった。
初めて声が電波にのったのも丹下さんのお蔭なのである。丹下さんは『素人ジャズのど自慢』という番組の司会で、フランク永井さん、水原弘さんらを育て、引退してブラジルに。そのままマスコミには登場していない。
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丹下キヨ子 宝塚 Google 検索
https://www.google.co.jp/search?q=%E4%B8%B9%E4%B8%8B%E3%82%AD%E3%83%A8%E5%AD%90&sa=N&rlz=1C1CHPO_jaJP580JP580&espv=210&es_sm=93&tbm=isch&tbo=u&source=univ&ei=q1xCU_jhF8bQlAWj64GYCA&ved=0CCUQsAQ4Cg&biw=1034&bih=602#q=%E4%B8%B9%E4%B8%8B%E3%82%AD%E3%83%A8%E5%AD%90%20%E5%AE%9D%E5%A1%9A&tbm=isch