じじぃの「人の生きざま_267_水の江・瀧子」

裕次郎発掘 ターキー水の江滝子さん死去 2009年11月22日 ニッカンスポーツ
男装のスター「ターキー」の愛称で親しまれ、プロデューサーとして故石原裕次郎らを発掘した元女優水の江滝子(みずのえ・たきこ)さんが16日午後6時45分、老衰のため神奈川県内で死去した。94歳だった。SKDから映画、テレビで活躍し、85年においの故三浦和義氏のロス疑惑事件で騒がれたこともあった。93年に故森繁久弥さんを葬儀委員長に「生前葬」を行った後は表舞台から遠ざかった。森繁さんに続き、昭和の芸能界に大きな足跡を残した人がまた1人逝った。
http://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20091122-568410.html
水の江瀧子 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E6%B0%B4%E3%81%AE%E6%B1%9F%E7%80%A7%E5%AD%90/16823
【追悼・水の江滝子】 花くらべ狸御殿 動画 niconico
http://nicoviewer.net/sm8880662
水の江滝子さん 死去 動画 デイリーモーション
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水の江瀧子 ウィキペディアWikipedia)より
水の江瀧子(1915年2月20日 - 2009年11月16日)は、日本の女優、映画プロデューサー。水之江瀧子水ノ江瀧子とも。本名は三浦ウメであったが、後に水の江滝子に改名した。作家の三浦和義は甥。 同年代の女性としては長身であり、身長5尺5寸(162.5cm)であった。
【生涯】
1945年(昭和20年)、NHK『紅白音楽試合』で紅組司会を務める。なお後述の通り、後身『NHK紅白歌合戦』でも2回紅組司会を務めている。
1952年(昭和27年)に、俳優の鶴田浩二が興した新生プロに所属。しかし、愛人であり、自身と鶴田のマネージャーでもあった兼松廉吉が1955年(昭和30年)に自殺。鶴田浩二襲撃事件から2年後のことであった。
1953年(昭和28年)12月の『第4回NHK紅白歌合戦』・1957年(昭和32年)の『第8回NHK紅白歌合戦』で紅組司会を務めている。第8回はラジオの音声が現存する。テレビ番組では、NHK総合テレビジェスチャー』、テレビ朝日独占!女の60分』のメイン司会、フジテレビ『オールスター家族対抗歌合戦』の審査員などが知られる。
舞台・映画・テレビにわたる半世紀以上の芸能生活だったが、1983年(昭和58年)、松竹歌劇団のミュージカル『マイガール』のプロデュースを経て、1984年(昭和59年)に甥(実兄の子)の三浦和義が、保険金目的で妻を殺害した疑念が報道されたことによるいわゆる「ロス疑惑」で世間に騒がれ、水の江に対しても三浦が隠し子なのではないかとのいわれのない記事が10本以上も報道された。このことを機に1989年芸能界を引退。三浦の父である兄とは絶縁し、本名を水の江滝子に改名する。なお、三浦和義については水の江の実子であるとの風評があり、三浦自身も小学生時代はこの説を信じていたが、1985年には「水の江滝子の実子説というのはなんの根拠もありませんよ」とはっきり否定していた。

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文藝春秋 2010年1月号
蓋棺録 「水の江瀧子(みずのえたきこ)」 (一部抜粋しています)
元女優の水の江瀧子は、「男装の麗人」として注目され、戦後は映画のプロヂューサーとして活躍した。
1915(大正4)年、小樽市で生まれる。実家は雑貨商だったが、2歳のときに家族と上京。中目黒尋常高等小学校の在学中、姉がこっそり松竹少女楽劇部(後に松竹歌劇団)に応募したところ、合格して第1期生となる。
毎日のレッスンでは、ダンスは好きだったが「歌はずっと下手だった」。しかし、男役を演じたのがきっかけでファンが楽屋を訪れるようになり、「千秋楽には大勢がおしかけてきた」。31(昭和6)年、『万華鏡』に出演したさい、カウボーイ姿で「俺はターキーだ!」と見得を着ると場内が興奮の渦となり、それ以後「ターキー」が愛称として定着する。
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38年、中国に慰問公演ででかけ、翌年には日米親善の芸術使節として渡米し、活動を世界に広げる。帰国後、松竹歌劇団の宣伝部員だった兼松廉吉と「劇団たんぽぽ」を結成。俳優に堺駿二有島一郎を迎えて、軽演劇界では有数の劇団に発展する。
戦後の48年に「たんぽぽ」は解散したが、しばらく国際劇場のミュージカルに出演して活動を続け、53年に舞台からの引退を宣言した。
しかし、その後の人生も華やかで、慌しいものだった。54年、兼松が借金を苦にして自殺、同年、日活からプロヂューサーとして迎えられる。最初プロヂューサーとは何かも知らなかったが、大胆な企画を打ち出すようになった。
第1作目は『初恋カナリア娘』という短編。日劇ミュージックホールで寸劇を演じていた岡田真澄やドラマーのフランキー堺を抜擢した。『太陽の季節』では、原作者の石原慎太郎から弟の裕次郎を紹介され、次作の『狂った果実』の主役を推すなど、新しいスターを次々と発掘した。
NHKテレビ開局とともに始まった『ジェスチャー』は、柳家金語桜と組んで長寿番組に育て、テレビドラマ『だいこんの花』で森繁久弥と共演。映画でも『サンダカン八番娼館 望郷』に女将役で出演している。
83年、「疑惑の銃弾事件」が浮上し、甥の三浦和義が容疑者に目されると、「三浦=ターキーの隠し子説」が週刊誌を賑わせた。ターキーはこの説を否定したが、三浦という苗字に嫌気がさして、戸籍上の名前を「三浦ウメ」から「水の江瀧子」に変えている。
93(平成5)年には生前葬を挙行し世間を驚かせた。

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