じじぃの「人の死にざま_1152_衣笠・貞之助」

衣笠貞之助 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E8%A1%A3%E7%AC%A0%E8%B2%9E%E4%B9%8B%E5%8A%A9/28013
衣笠貞之助監督『十字路』 Part1 ニコニコ動画
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13170514
衣笠貞之助監督 『狂った一頁』 Part1 ニコニコ動画
http://www.nicovideo.jp/watch/sm14284653
衣笠貞之助 ウィキペディアWikipedia)より
衣笠貞之助は、大正・昭和期の日本の俳優、映画監督。本名は小亀貞之助。
【略歴・人物】
三重県亀山市本町に煙草屋の息子として生まれる。
映画界が女優を起用し始め、女形が不要になってきたこともあり、監督に転向し、1920年、『妹の死』でデビューする。その後、長谷川一夫のデビュー以来、起用し続け、彼をスターにし、1932年のトーキー映画『忠臣蔵』を大ヒットに導く。1926年の『狂った一頁』は1982年にサウンド版を全世界で公開し、大成功を収めた。『十字路』も含め、欧米で最も早く世界的評価を受けた日本人監督として知られている。なお実弟衣笠十四三も映画監督となった。
終戦後も、長谷川一夫山田五十鈴を主役に据えた娯楽時代劇の傑作を次々と発表した。1953年、華麗な色彩美あふれた歴史絵巻『地獄門』がカンヌ国際映画祭グランプリ、米アカデミー賞の名誉賞と衣裳デザイン賞の2部門、ニューヨーク映画批評家外国語映画賞を受賞し、世界的大監督の名声を獲得した。

                              • -

『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
衣笠貞之助(きぬがさていのすけ) (1896 - 1982) 86歳で死亡。 (一部抜粋しています)
日本映画草創期、「狂った一頁」「十字路」などの前衛的作品を発表し、のちに林長二郎長谷川一夫)を育てて、昭和初期「雪之烝変化」「大阪夏の陣」などで日本映画全盛期を作り出した「巨匠」衣笠貞之助は、山田五十鈴をはじめとする女性遍歴に人生でも「巨匠」であった。
昭和41年、ソ連との合作映画「小さい逃亡者」をとったあと、映画監督の仕事はなく、舞台の演出や脚本で晩年を過ごしたが、54年9月、京都の自宅で転倒し、それ以後次第に脳軟化症状を呈し、56年夏ごろから寝たきりになり、人の判別もできなくなった。そして57年2月26日、脳血栓で死んだ。
     ・
しかしながら、日本映画草創期の名画といわれた諸作品がすべて散佚(さんいつ)した中に、「十字路」のプリントはロンドンの国立フィルム・ライブラリーに、「狂った一頁」のネガは衣笠の自宅の蔵の米櫃(こめびつ)の中に残っていたという奇蹟は、衣笠に映画監督として何よりの幸福をもたらした。

                              • -

衣笠貞之助 Google 検索
http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&q=%E8%A1%A3%E7%AC%A0%E8%B2%9E%E4%B9%8B%E5%8A%A9&gs_l=hp...0l5.0.0.2.95200...........0.A5LYattW9EU&sa=X&oi=image_result_group&ei=jf2OUaTJBa-iiAfOjYC4Aw&ved=0CCQQsAQ