じじぃの「人の死にざま_1276_W・ワイラー」

ウィリアム・ワイラー - あのひと検索 SPYSEE
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The Collector (1965) - William Wyler - Trailer 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=aeNU_FAVqF8
Ben-Hur(1959) - Prologue 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=IdRHDmXQ264
Roman Holiday(ローマの休日)−Audrey Hepburn 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=fM9634oLr2I
映画 「ローマの休日

ウィリアム・ワイラー ウィキペディアWikipedia)より
ウィリアム・ワイラー(William Wyler, 1902年7月1日 - 1981年7月27日)はアメリカ合衆国を代表する映画監督の一人。
アカデミー監督賞を3回受賞、ハリウッド黄金期に活躍した名監督として「巨匠の中の巨匠」と呼ばれる一人。
完璧主義者として知られた。
ドイツ帝国ミュールハウゼン(現・フランス東部アルザス地域圏オー=ラン県ミュルーズ)出身。
【人物・概要】
数あるヒット作の中でも特に1959年に当時の最高額1500万ドルの制作費をかけたスペクタクル史劇『ベン・ハー』は空前の大ヒットを記録しただけでなく、アカデミー賞では作品賞を含む過去最高で、いまだに破られていない合計11部門を受賞してワイラーには3度目の監督賞が贈られた。本作の白眉といえば二輪戦車の疾走するレースシーンであるが、実際、このシーンの演出は第二班監督のアンドリュー・マートンと同じく第二班監督でウェスタンの名作『駅馬車』のスタントで名を馳せた元スタント・マンのヤキマ・カヌートが担当、ワイラーは総合監督の立場で、受賞の際のスピーチも「オスカーが増えてうれしい」という短いものだった。
年齢が60代に入ってもワイラーの手腕は衰えるどころか、さらに幅広いジャンルで活躍、サイコ・スリラー『コレクター』、ワイラー唯一のミュージカル『ファニー・ガール』、黒人差別問題を描いた遺作『L・B・ジョーンズの解放』を手がけ、また『ローマの休日』でワイラーが見出して一躍スターダムを駆け上がったオードリー・ヘップバーンを再び迎え、『噂の二人』(1936年に発表した『この三人』のセルフリメイク)や『おしゃれ泥棒』に起用した。
アカデミー監督賞を3回受賞、ノミネート回数は12回に上るという偉大な記録は未だに破られていない。
1981年、ロンドンで開かれた自分の作品を上映した映画祭に出席し、7月26日に帰国、しかし翌27日にビバリーヒルズの自宅にて心臓麻痺で世を去った。

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『名作はあなたを一生幸せにする - サヨナラ先生の映画史』 淀川長治/著 近代映画社 1999年発行
テレビの出現によって誰もが家庭で名作映画を見られる (一部抜粋しています)
思えば電気館なる名まえもおかしいじゃないか。けれども活動写真上映、その最初のアメリカのテント小屋の看板エレクトリック・シアター、この直訳だ。
という気の遠い昔のことから今はテレビ。
思えばそれに初めて私が足をつっこんだのが「ララミー牧場」。これ約3年間、私の51歳から54歳。1960から63年まで。
それから3年。ふたたびテレビにひっぱりこまれ、1966年の57歳から現に今も進行中。それで30周年のお祝いをしていただいた。
活動写真を家で見るなんて、誰が思ったことか。いまではフェデリコ・フェッリーニもセシル・B・デミルもウィリアム・ワイラーもの作品が家で見られる。テレビは始め”電気紙芝居”とバカにされた。私もテレビを馬鹿にした。そのテレビに今や同居。けれども映画こそ大衆のもの。これをあざやかに示したのがチャールズ・チャップリン。映画は誰が見ようがわかるもの。
その”誰が見ようが”のまさにズバリがテレビ。地方、それも田舎の田舎の温泉にゆく。するとその温泉に来ていた田舎のバアさんが『ダンナ、どっかで見たべェ』とつくづく私の顔をのぞく。そのバアさんにも、テレビはウィリアム・ワイラーの「コレクター」(1965)を見せている。
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それもこれも相手の敵はテレビ。テレビが憎くて仕方がない。ところがやがてハリウッド名物のオスカー発表の日がやってきた。
アカデミー協会はこのところ資金に困っていた。1951年作品賞の「巴里のアメリカ人」、そしてここに1952年の「地上最大のショー」、ついに金に困ったハリウッドはテレビに救いを求めた。アカデミー賞の発表をテレビで世界にも発表。こう考えた。
新聞はびっくりした。そして大きな文字で『テレビと映画、ついにここに結婚』と発表した。
これを日本から見物に行った私は、その夜のアカデミー会場を見る。場内(パンテージ劇場)満席の映画人が、きらびやかに豪華パーティーへの出席のいでたち。ブラウン管に自分の姿がうつるから。
ここに司会のボッブ・ホープ、開口一番、「こりゃまァ、今夜はテキサス州のPTAですかい」と言った。このジョークに満席の客が笑いころげた。
テキサスといえばアメリカの石油成金にいるところ。そのテキサスのPTAといえば、キンキラキンの豪華イブニングのお出まし…そうヒヤかしたのを、満席に客は笑ころげた。場内から表の入口が見え、表から場内のオスカーの進行の舞台が見える。テレビは自由八方そのキャメラを使いまくった。
「地上最大のショー」でアカデミー作品賞受賞のデミルに、パラマウントで逢ったとき、「ハイ、こんどはアメリカのボーイスカウトの伝記を映画にいたします」と言っていたのに、デミルは「十戒」再映画化中の1955年、78歳で亡くなった。まさか逢ってから2年足らずにデミルが亡くなるとは。

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