じじぃの「人の死にざま_1277_グレタ・ガルボ」

グレタ・ガルボ - あのひと検索 SPYSEE
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Flesh and the Devil (1926) - The Waltz 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=Hr2ehyOz2Ms
Tribute to Greta Garbo (In Color 2) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=Uu0QOuKuc7I&list=RD5wsRXMP9AEs
グレタ・ガルボ ウィキペディアWikipedia)より
グレタ・ガルボ(Greta Garbo、1905年9月18日 - 1990年4月15日)は、スウェーデン生まれのハリウッド映画女優。本名はグレータ・ルヴィーサ・グスタフソン(Greta Lovisa Gustafsson)で、ハリウッドのサイレント映画期ならびにトーキー映画初期の伝説的スターである。3度のアカデミー主演女優賞へのノミネート経験があり、1954年に「輝かしく忘れがたい演技」に対してアカデミー名誉賞が贈られている。また、1935年の『アンナ・カレニナ』と1936年の『椿姫』で、ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞を受賞している。アメリカン・フィルム・インスティチュートが1999年に選定した映画スターベスト100の女優部門では、キャサリン・ヘプバーンベティ・デイヴィスオードリー・ヘプバーンイングリッド・バーグマンに続く第5位にランクされた。
ガルボ1924年スウェーデン映画 『イエスタ・ベルリングの伝説』(en:The Saga of Gosta Berling) の準主役で、女優としての活動を始めた。この作品でのガルボの演技が、アメリカの映画会社メトロ・ゴールドウィン・メイヤー (MGM) の副社長ルイス・B・メイヤーに認められ、1925年にガルボはハリウッドへ招かれた。翌1926年にハリウッドでの1作目となるサイレント映画『イバニエスの激流』で注目を集め、3作目の『肉体と悪魔』(1926年)で国際的な映画女優としての地位を築いた。
引退した1941年にガルボはまだ35歳だった。その後もガルボのもとには多くの映画出演依頼が舞い込んできたが、ガルボが映画界に復帰することはなかった。引退後は公の場所に姿を見せることなく、隠棲生活のうちに死去した。

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『名作はあなたを一生幸せにする - サヨナラ先生の映画史』 淀川長治/著 近代映画社 1999年発行
ハリウッドが映画スターを作り出す (一部抜粋しています)
パラマウントの始まりのその初めに、ブロードウエーから舞台監督のセシル・B・デミルを迎えたとき、デミルはなんと殆ど映画とは関係なき早川雪洲を、映画スターとして招いたのであった。
もっともその作品が「チート」(1915)と称して、日本人の富豪が西洋人の人妻に金をかし、その返済期間を1日でも越えるとその人妻の背中に焼きごてを押しつけるという約束。このときのその人妻を演じたのが、ファニー・ウォードといってこれも有名な舞台女優。かくして早川雪洲はたちまちこの1作で有名となり、ぞくぞくと主演映画を生んだのだった。ハリウッドはこの日本人スターに、とくに婦人連中は夢中となった。
それでアメリカ映画の美男スターの第1号、これぞ早川雪洲、つづく第2番がウォーレス・リード、第3番がなくてサイレント末期のイタリア人ルドルフ・ヴァレンティノがこれにつづくスターとなった。
このスターはハリウッド映画には欠かせぬダイヤモンドであった。それでやがてトーキーとなり、ハリウッドは言葉の言える、すなわち台詞(せりふ)の言えるスターをブロードウェイから招いたが、ハリウッドは自分たちの手でスターを生まねばならぬことを考えて、ポーラ・ネグリをドイツから迎えた。
ハリウッドはアメリカ人をけいべつしたのではなく、アメリカ人の顔にはあきあきしていたのであった。それがしょうこにイの1番に日本人の雪洲に夢中となり、ポーラ・ネグリもドイツ人だった。いまも日本人が西洋人の顔を見るときれいと思うように、ハリウッドの連中はよその国の人の顔に惚れぼれした。サイレント最後のスターのヴァレンティノもイタリア人だった。
さてトーキーはニューヨーク、その渡欧部の舞台スターばかりを映画に招いたが、ハリウッド自身がスターを生むことにも力をかけた。
その第1号が、グレタ・ガルボだった。ガルボスウェーデン人で、スウェーデンの有名な監督のマウリッツ・スティルレルがMGMに招かれたとき、この監督が勝手にガルボを連れてきたのであった。
MGMはスティルレルだけを招いたので、一緒に来たこの背の高いおおがらの女性にはすこしも興味を持たなかったが、宣伝部員がおあいそに、あなたの名を、と聞いたとき、この女性はスティルレルに、『このひとはわたしになんて言ったの』と聞いた。かいもく英語がわからない女性だった。それで自分の名を聞かれたことを知ったので、太い声でグレタ・グスタフソンと答えた。
そんな名のこのようなおおがらの女など、スターになるものかとその場でことわるつもりが、監督のスティルレルの手まえ、ぎりにスクリーン・テストをやってみた。ところがスクリーンにうつるこの女性のマスクがあまりにもすばらしいので、とにかくみがいてみようとMGMはいやいや契約をかわし、グスタフソンでは商売にならぬので、考えてグレタ・ガルボと新しい名を考えた。ハリウッドは名まえにもえんぎをかつぎ、名のかさなる1つ文字をこのんだのであった。
チャップリンチャールズ・チャップリン(C・C)。ひどいのはメーリー・マイルズ・ミンター(M・M・M)、このようなハリウッドはグレタ・ガルボ(G・G)で手を打った。
初めは、彼女がキャメラ・フェイスが美しいので、なまめかしい女の絵男鹿を2本作ったがダメ。それでクラーレンス・ブラウン監督をもって、神秘な女「肉体と悪魔」(1927)でやっとガルボをスターにした。したどころか、ガルボアメリカ映画史にやがて輝くスターとなった。

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