じじぃの「人の死にざま_1278_A・ラッド」

アラン・ラッド - あのひと検索 SPYSEE
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Shane (1953) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=SWdPmapuOd4
The Hollywood Collection: Alan Ladd - The True Quiet Man 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=yzlDzE0NeMM
シェーン カムバック

アラン・ラッド ウィキペディアWikipedia)より
アラン・ラッド(Alan Ladd, 本名:Alan Walbridge Ladd, 1913年9月3日 - 1964年1月29日)は、アメリカ合衆国出身の俳優である。西部劇映画の代表作『シェーン』で主役のシェーンを演じたことで知られる。
【略歴】
B級フィルム・ノワールの主演スターとして活躍したラッドは、1953年のジョージ・スティーヴンス監督の西部劇『シェーン』でその人気を決定的なものにする。それ以降も西部劇で主役を演じ、身長168cmと小柄ながらも精悍な身のこなしで50年代後半までハリウッドを代表するスターとなった。だが作品数は当時のハリウッドの大スターにしては多くない。
1955年にジョージ・スティーヴンスより、壮大な家族ドラマ『ジャイアンツ』にジェット・リンク役をオファーされるが断ってしまう。その後、ジェット・リンク役はジェームズ・ディーンが演じ、ディーンの代表作のひとつとなった。50年代後半を過ぎてからは人気に陰りをみせて自身もノイローゼになっていく。
1962年11月に拳銃による自殺未遂を図る。1963年には『大いなる野望』に助演し、カムバックするかに見えた。実際に『大いなる野望』は翌年公開され、その年の最も有名な映画の一本になったが、ラッドが本作を生前に見ることはかなわなかった。1964年にパームスプリングスで死亡しているのが発見される。不眠症用に服用していた睡眠薬とアルコールを多用に摂取したことが原因だった。

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『名作はあなたを一生幸せにする - サヨナラ先生の映画史』 淀川長治/著 近代映画社 1999年発行
スターになるには話題性だけでなく”アクセント”が必要 (一部抜粋しています)
スターたるものはどこか光っていないとスターの貫録がない。光というのは、つまりアクセントが強いということかもしれない。
トム・クルーズが来日したとき東京のホテルで逢った。いかにも美男子だったので、面と向かってというよりも目と目がくっつくくらい顔をあわせて、『ハンサム!』そう私が半分本気、半分ひやかすつもりでそう言ったところ、彼は『イエース』とあざやかにいった。それは気どりでもなく、ニヤリ半ば本気半ばの顔でそう答えた。これが”スター”の一面である。いじいじと貧しげでは”スター”ではない。
そしてそのトム・クルーズが日本へ来るのに、新婚のワイフと自家用機でアメリカから日本に来たと言うので、この若い年でそのようなぜいたく気どりは危ないからおやめ、と忠告したら『ダイジョウブ』と答えた。
私が言ったアブナイは、その若さでぜいたくすぎてアブナイと言ったのを、彼は私のアブナイを自家用機が墜落しないかという忠告とカンちがいしたらしい。しかしそれはカンりがいでなく茶化したのかもしれないが、このようにゆとりのあるユーモアをふくめた返事が即座に出るところに”スター”の資質がそなわっている。
スターは貫録を持ちあわさねばならない。スターはある意味でズウズウしくなくてはならない。気が小さくてはとうてい”スター”にはなれない。
古い話だが「シェーン」(1953)のアラン・ラッドは「大いなる野望」(1963)でネバダ・スミスを映画化する企画が生れ、これをヘンリー・ハサウェー監督で映画化することにきまったとき、アラン・ラッドはそのネバダ・スミスを必ず自分がやるのだと思ったのに、その役がスティーブ・マックィーンにきまり、アラン・ラッドは自殺した。しょせんアランはスターの貫録を持っていなかった。
このアランは生活が貧しく、早くから新聞売り子で家計を助け、ユニヴァーサルにスカウトされて、19歳からエキストラとなり、この彼をもと女優でこのあとスターのエイジェントをしているスー・キャロルに発見されて、レパブリックそしてモノグラムなどのB級映画作りの会社に売りこまれ、ユニヴァーサル、RKOを経てついにパラマウントと契約。
そして二枚目のアクション・スターにこぎつけたが、これはすべて妻であり彼のスター・マネージャーでもあるスー・キャロルの影の力がそうさせたのであって、「シェーン」のビッグ・チャンスから「赤いベレー」(1953)「島の女」(1957)「サンチャゴ」(1956)と本格スターの名をひろめ、いよいよネバダ・スミス本格の映画化を発表したとき、会社はその主役の名を未定と発表した。
それでスー・キャロルはまちがいなく自分の夫がこの大役をと、ひとりぎめしていたところ、発表された主役は自分ではなかったので彼は連夜酒をあおり、そのはて自分から命を断ったのだった。死亡したときは51歳。まだまだという時に亡くなった。悲しいことに、スターの貫録を彼は持っていなかったのだ。

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