「シェーン」(Shane)(1953)
2019.04.11 CINEMA MODE
西部劇の中でも傑作と名高い、ジョージ・スティーブンス監督の今作。アラン・ラッド演じる主人公シェーンは映画史に残るヒーローとして、また劇中最後の台詞”Shane! Come back!”も有名ですね。
本作にはキャプラ映画でおなじみだった名女優ジーン・アーサーも参加しています。
アカデミー賞では撮影賞を受賞。さらに作品、監督、脚色、そして助演男優賞には2名がノミネートしております。
アメリカ西部劇を観ていく上では、必見の作品であり、またホームステッド法やジョンソン郡戦争を背景としている作品としても勉強になるものです。
https://cinema-mode.com/shane1953
街場の米中論
【目次】
第1章 帰ってきた「国民国家」時代の主導権争い
第2章 自由のリアリティ
第3章 宗教国家アメリカの「大覚醒」
第4章 解決不能な「自由」と「平等」
第5章 ポストモダン後にやって来た「陰謀論」時代
第6章 「リンカーンとマルクス」という仮説
第7章 国民的和解に向かうための「葛藤」
第8章 農民の飢餓
第9章 米中対立の狭間で生きるということ
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第2章 自由のリアリティ より
つねに「始原の問いに立ち戻る」アメリカ
アメリカはたぶん「自由であることの価値」が世界で最も評価されている国の1つだと思います。でも、それがいささか度を越している。それは建国の事情がかかわっているということを前に書きました。アメリカ合衆国は「武装した自由なる市民」が自発的に銃を執って立ち上がって建国した国です。西欧ではフランスも英国もそれぞれ市民革命を経験していますけど、市民革命で支配者を倒した人たちが、その勢いのまま憲法を制定し、建国の父たちがゼロベースで制度設計した統治システムが大筋で変更されることなく続いている国はアメリカ以外にはありません。
ですから、アメリカ人は現実的な問題に遭遇する度に、そのつどつねに「われわれは建国の時点において、どのような国を創ろうとしたのか、どのような市民であろうとしたのか?」という始原の問いに立ち戻ることになります。始原の問いに立ち戻ることができます。何か大きな国難程な危機や、国論の分裂に遭遇するごとに、国民がそのつど帰趨的に参照すべき「原点」が存在する。これは他の国ではまず見ることのできないことです。
「カウボーイ」という理想的国民像
アメリカ最初のヒット西部劇は1907年から16年にかけて製作された『ブロンコ・ビリー』シリーズです。映画はシカゴで撮影され、主演したギルバート・M・アンダーソン(Gilbert M. Anderson.1880-1971)はのちに「映画カウボーイの父(father of the movie cowboy)」と呼ばれました。でも、彼はニューヨーク出身のユダヤ系のボードビリアンで、乗馬も射撃もできませんでした。のちにカウボーイ像の原型となった”ブロンコ・ビリー”はまるごと想像の産物だったのでした。
実物のカウボーイがスクリーンに登場したのは1910年代になって映画製作の拠点が西海岸のハリウッドに移って以降です。ハリウッド最初の西部劇スター、トム・ミックス(Tom Mix、1880-1940)は元保安官で、ワイルド・ウェスト・ショーのスターだったという「本物の西部男」でした。映像を観ると、彼は馬の乗りこなしも投げ縄術もみごとなものです。彼に続いて、鉄道網の整備によって職を失ったカウボーイたちがどんどん西部劇に参入してきました。乗馬重と銃の扱いを知っている人たちがエキストラとして大挙スクリーンに登場してきた。それによって西部劇はいきなりリアリティを持つようになりました。
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西部劇映画を通じて広まったイメージとしてのカウボーイそれ自身が現実と乖離した想像上の産物なのですから、そこにどのような性格規定を与えるのも自由です。そして、ある種のアメリカ人たちはそこに「リバタリアン」の理想を投影しました。故郷を持たず、いかなる集団にも帰属しない独立独行の人。宵越しの金は持たず、妻も子もなく、トラブルの解決は司法に委ねず、自分の拳か銃でけじめをつける。そして、英雄的な行為のあとに黙って荒野に消え去る。そういうタイプの男を「理想像」に仕立てた。
どんな国民も、それぞれ固有の「理想的国民像」を有しています。別に全国民がそれに従って自己造形するというわけではありませんが、でも「そんなものオレは気にしないね」という場合でも、できあいの「理想的国民」と自分の隔たりを意識することは止められない。
「囲い込み」に抵抗したカウボーイたち
「切り拓いた者」と「後から来た者」の非妥協的な対立を描いた作品が『シェーン(Shane)』(1853年)です。映画の舞台は南北戦争直後のワイオミング。物語の背後には1862年にリンカーンが発布した「ホームステッド法(自営農地法)」という法律があります。公有地に定住して、5年間耕作に従事した者には160エーかーの土地を無償で贈与するというまことに気前のよい法律です。この法律を知って、自営農になるチャンスを求めて、ヨーロッパから大量の移民が入植してきます。アメリカにとっては農牧業を発展させ、西部開拓を一気に進めることは国家的急務でしたし、荒野を農地に替え、大量の生産者消費者を生み出すことはアメリカ資本主義の悲願でもあったのです。
『シェーン』はその時代の話です。
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スターレッドの農業で働くことになったシェーンが最初に雑貨屋に買いに行ったのは有刺鉄線でした。ワイオミングの緑の草原に杭を打ち、有刺鉄線を張って、猫の額ほどの私有地を「囲い込む」のがシェーンの最初の労働でした。これは審美的にもあまり美しいものではありません。ですから、カウボーイたちがその「仕切り」を乗り越えて農場に踏み込むのは、「いやがらせ」であると同時に、「土地は私有すべきものではなく、誰でも自由に往き来できるパブリックな空間であるべきだ」という彼らなりの土地意識の表明でもあったのです。
シェーンの英雄的な戦いによって、非道なカウボーイたちは全員殺され、資本主義の発展に逆らう者たちは予定通り歴史の彼方に姿を消します。けれども、彼らを撃ち殺したシェーンもまた(『リバティ・バランスを射った男』におけるトムと同じく)、自分が幕を開いた資本主義社会の中には居場所がありません。荒野に去り、「歌われざる英雄」としての孤独死を迎えるしかない。
これもまたずいぶんと含蓄の深い映画だと思いませんか。アメリカの近代を血と汗を流して創り出した人々は、そのあと自分たちが創造した社会から「お払い箱」を宣言されて、生業を失い、居場所を失い、荒野に放逐される。「本当のアメリカ人」はつねにそういう悲劇的宿命を生きる。
このストーリーパターンはたぶんいまでも多くのアメリカ人に深い感動を与え続けていると思います。そして、ある種の政治的運動にも心的なエネルギーを備給している。
2016年の大統領選挙でトランプに支持を与えた「ラストベルト」の人々や、2021年1月6日の連邦議会に侵入した人々を衝き動かしていた情念はこの物語に培養されたものではないかと僕は思っています。