STAGECOACH (1939) | Full movie HD | WESTERN MOVIES | Classic John Wayne movies | COWBOY MOVIES [USA]
The Alamo Theatrical HD Movie Trailer (1960)
John Wayne 「Good Deed」
Glen Campbell’s ‘Good Deed’ Helped John Wayne Win His Only Oscar
Country Music Family
Numerous John Wayne films were considered Oscar-worthy, including Red River (1948), Sands of Imo Jima (1949), The Quiet Man (1952), and The Alamo (1960).
While Sands of Imo Jima and The Alamo earned Wayne Oscar nomination, it was his 1969 movie True Grit that finally won him a coveted Oscar statue.
https://countrymusicfamily.com/glen-campbells-good-deed-helped-john-wayne-win-his-only-oscar/
アメリカと銃 銃と生きた4人のアメリカ人 大橋義輝
HM&BOOKS online
今に続く「銃社会」はいかにしてつくられたのか?アメリカと銃の、想像を絶する深い関係に迫る。
全米一有名な「幽霊屋敷」の主サラ・ウィンチェスター、第26代大統領セオドア・ルーズベルト、ノーベル賞作家アーネスト・ヘミングウェイ、そして西部劇の名優ジョン・ウェイン。銃にまつわる4人の生涯と、アメリカ社会がたどった「銃の歴史」が交錯するとき、この国の宿命が見えてくる―。
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第6章 ジョン・ウェインが放つ銃 より
世界を魅了した「ミスター・アメリカ」
セオドア・ルーズベルトやヘミングウェイと違い、実の世界ではなく虚の世界、映画の中の、いわばエンタテイメントとして銃の使い手、それがジョン・ウェインだった。
今の若い人には馴染みが薄いかもしれないが、西部劇が衰退した今でも、アメリカ映画史上最大のスターの一人といっても過言ではないだろう。なにしろ晩年の病床時、現職の大統領がこの俳優を見舞った。もちろん異例中の異例のことだ。
ジョン・ウェインは「ミスター・アメリカ」と称される。強いアメリカをシンボライズした人物であったからだ。銃が最も似合い、銃を持たないジョン・ウェインはジョン・ウェインにあらずとさえ言われたほどだ。ジョン・ウェインの銃はアメリカ人はもちろん、世界中の多くの人を惹きつけ、多大なる夢や感動を与えてきたのだった。
私の小学生時代、昭和20年代半ばから後半にかけて学校で上映会が催された。ジョン・ウェイン主演、ジョン・フォード監督の『駅馬車』(1939年製作)であった。西部劇の金字塔と言われるこの作品が、白い大きなスクリーンに映し出された。スクリーンは木造校舎にとりつけられて校庭にゴザを敷いて観た覚えがある。野外での上映会だから、開始は夜のとばりが降りてからであっただろう。
次々と映し出される、モニュメント・バレーをバックに砂塵を舞い上げながら疾駆する駅馬車、追跡するインディアンの群れ。飛んでくる弓矢に対して銃での対抗。追いつ追われつ手に汗握る緊迫感とスピード感……。ドギマギしながら観たものだった。さらにタタタタ~タララララン~の音楽が心に響き、場面を盛り上げる。あのワクワクするような懐かしの音楽は、60年以上経った今でも口ずさむことができる。小学生時代に観たこの作品は、いわば映画の面白さや醍醐味を教えてくれた。
ジョン・ウェインはこの一作で一躍人気スターとなった。『駅馬車』と並び称されるのが、『黄色いリボン』(1949年)であろう。テーマ音楽(作曲:リチャード・ヘイグマン)でもすっかりお馴染みである。騎兵隊もインディアン側も、一人の死者も出ていない珍しい西部劇である。『アパッチ砦』『リオ・グランデの砦』とともにジョン・ウェイン主演、ジョン・フォード監督の騎兵三部作と言われている。
保安官が、あるいはガンマンが悪党をやっつけるという分かりやすいストーリー。ドンパチを見て心がスカッとしたものであった。ジョン・ウェインは背も高くガッシリとした体躯、強さの象徴であり、当時は正義のシンボルであった。
このほかにもジョン・ウェインには数々の名作が残されている。西部劇の最高峰との呼び声高い前出の『駅馬車』をはじめ、『幌馬車』『アラモ』『勇気ある追跡』『西部開拓史』等、およそ150本の映画に出演した。
ジョン・ウェインが亡くなった時、女優のモーリン・オハラは、「彼はアメリカなんです」という言葉を残した。一体どういうことか。
オハラはたびたび共演していたから、彼のことをよく知っていた。”アメリカ的”なるもの、すなわち銃と共に強さをジョン・ウェインは体現している、というわけだろうか。
俳優としてジョン・ウェインは銃にこだわりを持っていたが、彼は拳銃よりもライフルを愛用した。拳銃はライフルよりも小さく、チャチに見える。チャチな拳銃を使うのは、大柄な自分にとって似つかわしくない、いかにも小者くさい、とジョン・ウェインは感じていたようだ。
西部劇と共にあった生涯
ジョン・ウェインは1907年アイオワ州ウインターセットで生まれた。家は薬屋で薬剤師の息子だった。本名はマリオン・ロバート・モリソン・南カリフォルニア大学の学生時代に映画の大道具係や小道具係のアルバイトをしていた。ハンサムで長身なこともあって俳優として誘われ、映画界入りとなった。
最初は端役だった。前で『ビッグ・トレイル』(1930年)の主演に抜擢されるも、映画はヒットしなかった。しばらくは不遇な時代を過ごす。そして人生が一変するのは、映画監督のジョン・フォードとの出会いであった。主演した『駅馬車』が大ヒット、一躍人気スターとなったのは前に述べた通りである。この映画以降フォード監督とコンビを組み、次々とヒット作を生み出したのだった。
ジョン・フォードはアメリカ映画界を代表する巨匠監督。アカデミー監督賞4度受賞は歴代最多である。ジョン・ウェインと組んだ西部劇が有名だが、実はその作風はコメディ、戦争、社会派と幅広い。批評家筋からは晩年に至るほど評価が高く、いわゆる作家主義の監督とみなされるようになった。日本では黒澤明が多大な影響を受けたことで知られる。
そもそも西部劇は、アメリカという国の土台を確立した西部開拓を劇化したものだ。セオドア・ルーズベルトも生涯のテーマとして、9年の歳月をかけ大著『西部の征服』を書き上げた。
西部開拓を歴史的観点から映画にしたのが『西部開拓史』(ヘンリー・ハサウェイ監督)である。主役の一人はジョン・ウェイン。役柄は大将ウィリアム・テカムセ・シャーマンだった。シャーマンは南北戦争時代、のちの18代大統領、グラントと並ぶ勇将だった。
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ようやくオスカーを手にしたのは60歳を過ぎていた。『西部開拓史』でメガホンをとったヘンリー・ハサウェイ監督の『勇気ある追跡』(1969年)でジョン・ウェインは主演男優賞を受賞した。
この時ジョン・ウェインはオスカーを手にして涙を流したという。涙にもっとも相応しくない「ミスター・アメリカ」が男泣きしたのだから、本人にとっては悲願だったのだろう。硬骨漢の涙を見て多くの人が感動したものだった。
この頃、ジョン・ウェインの体はすでにぼろぼろであった。俳優はとくに時間も不規則、演技時間もばらばら。ドーランを顔に塗り常に光量の多い照明に狙われる。肉体的にも精神的にも、過酷な職業と言える。
ジョン・ウェインは40代以降、さまざまな病魔との戦いの連続であった。
1964年、43歳で左肺切除。1978年、57歳で豚の心臓弁膜を移植。そして1979年、58歳で胆嚢手術。その20日後に胃除去、3ヵ月後に気管支炎、さらに1ヵ月後に腸閉塞手術。まさに病との戦いであった。
プライベートでは3度の結婚。7人の子どもに恵まれた。そして孫はあわせて22人という大家族を作り上げた。まさに巨人である。
1979年6月11日、ロサンゼルスの病院で死去。72歳だった。カーター大統領から大統領自由勲章を授与された。