じじぃの「歴史・思想_483_アメリカと銃・リンカーン大統領を襲った銃」

Henry Deringer Gun Used To Assassinate President Lincoln

Lincoln Assassnation Weapon

Above is a photo of the actual gun from the National Park Service. The PI And Spy Museum has a replica. The weapon fired one .44 caliber round ball and was a single shot Deringer made by Henry Deringer of Philadelphia. It's about six inches in length and has about a 2 1/2 inch barrel.
https://www.pimall.com/nais/pivintage/boothgun.html

アメリカと銃 銃と生きた4人のアメリカ人 大橋義輝

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今に続く「銃社会」はいかにしてつくられたのか?アメリカと銃の、想像を絶する深い関係に迫る。
全米一有名な「幽霊屋敷」の主サラ・ウィンチェスター、第26代大統領セオドア・ルーズベルトノーベル賞作家アーネスト・ヘミングウェイ、そして西部劇の名優ジョン・ウェイン。銃にまつわる4人の生涯と、アメリカ社会がたどった「銃の歴史」が交錯するとき、この国の宿命が見えてくる―。

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アメリカと銃 銃と生きた4人のアメリカ人』

大橋義輝/著 共栄書房 2020年発行

第4章 大統領を襲った銃と、征服された者の“呪い” より

第16代リンカーンの場合

南北戦争北軍が勝利してまもなく、エイブラハム・リンカーンは勝利の美酒ならぬ芝居の観劇中に背後から左耳の後ろを拳銃で撃たれた。

アメリカ大統領の初の暗殺事件だった。

当時の「ニューヨークタイムズ」紙を閲覧すると、黒枠付きの記事で報じられていた。現代のように写真はなく文字で埋め尽くされている。
「恐ろしき事件」という見出しとともに、「大統領は重篤だが”まだ生存”」という小見出しがある。
――4月15日(1865年)土曜日午後9時30分ごろ、リンカーン大統領は妻とともにフォード劇場2階の私設ボックスに座って観劇(「アメリカのいとこ」)していたところ、背後から何者かによって拳銃で頭部を撃たれた。北軍の勝利で至福の時間を突然に崩されてしまった。犯人は狙撃直後に2階の手すりを乗り越え、カーテンを伝わりステージに飛び降りて、そのまま逃走した云々……。
犯人は役者くずれの南軍系の男であった。名前をジョン・ブースといった。使用した拳銃はデリンジャーだった。この銃は現在、ワシントンDCのフォード劇場歴史館に展示されている。
戦(いくさ)に敗れた南軍系の人びとにとって、この惨劇ほど胸のつかえの吹っ飛ぶ爽快な出来事はなかっただろう。なにしろ5年にわたる南北戦争に負けて意気消沈していたのだ。
ジョン・ブースは事件の後逃走し、陸軍による大規模な捜査が行なわれた。そして4月25日、立てこもっていた倉庫を包囲されて銃撃され、翌朝絶命した。共犯者として8名が逮捕され、うち4名が処刑された。
1865年4月19日に行なわれたリンカーンの葬儀には、数万人が押しかけた。彼の遺体は列車にのせられ、ニューヨークからイリノイ州スプリングフィールドまで2500キロの葬送となり、道中では数十万人がこれを悼んだという。

第35代ケネディの場合

暗殺既遂の最後は第35代ジョン・F・ケネディである。ケネディの暗殺についてはこれまで膨大な資料、文献、映像作品などが存在する。本書ではごく簡単に記すにとどめておく。
1963年11月22日金曜日、午後0時半のこと。テキサス州を遊説中のケネディ大統領は、妻ジャクリーンとともにリムジンのオープンカーに乗り込みダラスのエルム通りを時速14キロから21キロ前後でゆっくりと走行中、銃弾を受けた。近くの教科書倉庫ビル6階から発射された銃弾は3発。1発は外れたものの2発はケネディに着弾。うち1発は頭部を直撃したのだった。銃器はイタリア製カルカノM1938ライフル銃であった。
ケネディは当時圧倒的な人気を誇っており、熱狂的な群衆が詰めかけていた中での暗殺であった。しかもパレードは衛星中継されていたから、世界中が度肝を抜かれる衝撃的な事件となった。
犯人とされたリー・ハーヴェイ・オズワルドは、まもなく狙撃現場から2マイル離れた映画館で逮捕された。ところが後日、ダラス警察署地下通路を連行中に回転式拳銃(コルト・コブラ)の弾丸を腹部に受けて射殺されてしまった。射殺したのはナイトクラブオーナーのジャック・ルビーだった。これにより事件の真相は謎に包まれてしまい、いまだに判然としないのはご存じの通りである。

第33代トルーマンの場合

ハリー・S・トルーマンは、フランクリン・ルーズベルト脳出血で急死したため副大統領から昇格した。かつては白人至上主義団体KKKクー・クラックス・クラン)に加入していたこともあったという。第二次大戦時、広島・長崎に原爆投下した時の大統領であった。
他の大統領と違ってトルーマンは任期中、ホワイトハウスが改築中であったために迎賓館のブレア・ハウス(客が宿泊する施設)を使用していた。
時に1950年11月1日午後2時過ぎのことだった。2人組の男がブレア・ハウスの玄関口から押し入ろうとして警備の警察官らともみ合い、銃撃戦となった。
ちょうどその頃、大統領はブレア・ハウスの2階で昼食後、恒例の昼寝をしていたという。騒動に目を覚ました大統領がベッドから下りて窓から見下ろすと、異常な光景が目に飛び込んできた。ブレア・ハウスの前のペンシルベニア大通りは車で渋滞、しかも大勢の人びとが野次馬の如く集まっていた。
銃撃戦の結果、暗殺は未遂に終わった。2人組の暗殺スパイバーのうち1人、グリセリオ・トレソラは警察官に射殺され、もう1人、オスカル・コラゾは胸に弾丸を受けてブレア・ハウスの階段下で血を流してうつぶせに倒れた。

インディアンのリーダー、テカムセ

テカムセとはインディアンのショーニー族のリーダーの名前のこと。日本ではテクムセあるいはテカムシとも表記されているが、ここではテカムセを採用する。
テカムセは、インディアン掃討を目論む白人に対して果敢に抵抗したインディアンの英雄といわれる。現在のオハイオ州南西部でキスポコサ族の酋長の息子として生まれたが、6歳の時に父が白人に殺された。白人たちは布や銃などの物品と引き換えにインディアンの土地を購入し領土を拡大していったが、これに伴い多くのインディアンが犠牲となった。つまり虐殺されたのだった。
テカムセは弁が立つし頭もよく英語も話せたようで、父の死後、兄チクシカや弟テンスクワタワらと手を携えて部族のリーダー的な役割を担っていた。
そもそも北米大陸にインディアンは500部族いるといわれているが、それぞれ部族によって自由な社会が形成されており、横のつながりはなかった。これこそがインディアン社会の特色であり、したがって他部族への侵略をしないのが暗黙のルールであった。
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インディアンの土地を遮二無二奪っていく白人を、テカムセは許すことができなかったのだろう。むろん父の仇といった感情も強く後押しをした。テカムセは大陸各地のインディアンの部族に赴き「手を組んで一緒に白人と戦おう」と団結を呼びかけて説得を続けた。
だが、オール・インディアンの実現は現実的に難しかった。それでもテカムセ一族に同調する人々が集まってきた。そして現在のデラウェア州の地、ティペカヌウに主都をつくったのである。
のちに第9代アメリカ大統領となる将軍のハリソンが、テカムセと会談をもったのが1808年のこと。交渉の内容はもちろん土地の売買であったが、決裂した。以後、毎年ハリソンは粘り強くテカムセと交渉を重ねたものの、合意することはなかった。ハリソンはテカムセの交渉を断念して別な部族のリーダーと新たに交渉に移った。
その結果、交渉は成立。アメリカ側はインディアンから250万エーカー(1エーカーは約1000坪)という広大な土地を買い上げたのだった。ちなみにこの広さは、大雑把にいえば日本の3倍、テキサス州の2倍弱にあたる広さである。