じじぃの「人の死にざま_348_V・リー」

ヴィヴィアン・リー - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%BC/20513/
Gone With the Wind(1939) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=dF48Oo7hKeU
A Streetcar Named Desire - Blanche and Mitch 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=HYmbXNKtjzI
ヴィヴィアン・リー フリー百科事典『ウィキペディア』 (一部抜粋しています)
ヴィヴィアン・リー(Vivien Leigh、1913年11月5日-1967年7月8日)は、イギリスの女優。
【生涯】
インドのダージリン出身。リーはアイルランドの家系の子孫であるが、アルメニアのパルシー教徒及びインド人の祖先もいると言われている。リーは両親と共にイギリスに移り住み、彼女はそこで成長した。
女優としてのリーの経歴は、舞台演劇から始まった。彼女の初出演作は『緑の飾り帯』であり、彼女をスターダムに押し上げた作品は『美徳の仮面』であった。1935年に彼女は初めて映画『探しだされるもの』に出演した。しかしながら彼女の最も有名な出演作は1939年の『風と共に去りぬ』であった。彼女はハリウッドに進出したイギリスの男優ローレンス・オリヴィエを追って渡米していた。
1944年に彼女は左肺が結核に感染していると診断された。病気にもかかわらず彼女はソーントン・ワイルダー作の舞台『危機をのがれて』や1946年には映画『シーザーとクレオパトラ』に出演したが、それは彼女の結核を悪化させる原因となった。
1951年に彼女は映画『欲望という名の電車』でのブランチ・デュボワ役で2度目のアカデミー賞を受章した。
リーは慢性的な結核の末、1967年にロンドンの自宅アパートで喀血によって気管を詰まらせて死去した。葬儀委員長は前夫のオリヴィエが務め、生前のヴィヴィアンの希望通り遺体は火葬され、遺灰はロンドンのサセックス、ブラックボーイズの近くにあるティッカレジ・ミル湖にまかれた。
リーはその生涯をイギリスで閉じたが、ハリウッドの人々は彼女の女優としての功績を称え、ハリウッド大通り6773番地のハリウッド名声の歩道に、彼女の名を刻んだ星型のタイルを埋め込んだ。

                              • -

『20世紀命日大事典』 蕪木和夫/著 風塵社 1999年発行
7月8日−ビビアン・リー (イギリス女優・53歳)
パリの上流家庭の娘たちが集まる寄宿学校で教育を受けるほどの裕福な家に生まれたビビアン・リーは1932年、19歳で弁護士と結婚したが彼女の人生を決定づけるハリウッドの演出家ローレンス・オリビエに激しく恋をし、夫を捨てオリビエの下に走る。
嵐が丘」そしてあの「風と共に去りぬ」を撮り、一躍世界のトップ女優の地位を不動のものとする。
しかし、1945年「シーザーとクレオパトラ」完成目前にして肺結核に倒れる。オリビエと結婚にこぎつけたが、病床に就いたリーに嫌気がさしたオリビエは新進女優とべったり。
アカデミー主演女優賞に輝き、永遠のスカーレットと賛じられたビビアン・リーもその最期はロンドンのアパートで一人寂しく死んでいったという。華やかであったぶんだけ痛ましい人生の"終演"のように思えてならない。
ヴィヴィアン・リー Google 検索
http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&um=1&ie=UTF-8&source=univ&ei=codfTKyqKIzCcabuudoO&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=1&ved=0CCwQsAQwAA&q=%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%BC%20%E7%94%BB%E5%83%8F&tbs=isch:1