じじぃの「人の死にざま_935_ブルース・リー」

ブルース・リー - あのひと検索 SPYSEE
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知ってるつもり?!ブルース・リー』-① 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=5R-FiHTrp5c
知ってるつもり?!ブルース・リー』-② 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=aI0z45ACZb8&feature=relmfu
ブルース・リー 不死身のドラゴン 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=UZVRyWebkKw
ドラゴン怒りの鉄拳(HD) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=WHcICQAJW2s&feature=related
ブルース・リー ウィキペディアWikipedia)より
Bruce Lee(李 小龍、リー・シャオロン、レイ・シウルン)は、サンフランシスコ生まれの中国人、中国武術家、武道家、香港の俳優。截拳道ジークンドー)を創始したマーシャルアーティストとしても知られる。墓碑銘は「FOUNDER OF JEET KUNE DO」。世界中で、特に中国人の間で中国ナショナリズムの体現者として広く知られている。息子はブランドン・リー
【出生・幼少時代】
父親の中国系で広東演劇の役者の李海泉と、混血の母親グレイスが家族を連れて長期アメリカ巡業中、辰年の1940年11月27日、辰の刻(午前8時)にサンフランシスコのチャイナタウンの病院で生まれた。5人兄弟の次男。映画には芸名の李小龍で出演している。生後3ヵ月あまりでサンフランシスコで製作された映画『金門女』(中国)に出演した。
その後イギリスの植民地下の香港に帰国した。1941年12月から日本とイギリスの間で開戦し、香港が日本軍の占領下におかれ香港での映画の製作が止まったために映画への出演は行っていないが、第二次世界大戦終戦後にイギリスへ主権が戻り、映画の製作が再開された8歳頃から子役として数多くの映画に出演。幼少より、中国武術の一派である詠春拳の葉問の指導で中国武術を身につける。
【武道家からアクションスターへ】
1970年に、香港の大手映画会社のショウ・ブラザーズ(邵氏兄弟有限公司)から独立したレイモンド・チョウ(鄒文懐)が設立したばかりのゴールデン・ハーベスト(嘉禾娯楽事業有限公司)と1本1万香港ドルで2本の映画出演の契約をする。翌1971年に、成人後の初主演映画『ドラゴン危機一発』が公開され、香港の歴代興行記録を塗り替える大ヒットになった。リーは、一躍、香港のトップスターに躍り出る。
主演第2作の『ドラゴン怒りの鉄拳』(1972年)では主演と武術指導を担当し、3作目の『ドラゴンへの道』(1972年)では、自ら「コンコルド・プロダクション」(協和電影公司、ゴールデン・ハーベストとの共同出資)を設立し、製作・監督・脚本・主演の四役を担った。この3作によって、リーは香港で不動のトップスターの地位を築き、ゴールデン・ハーベストは興行収入で香港最大の映画会社となった。
1972年秋から、リーの2作目の監督映画『死亡遊戯』の撮影がスタートする。ところが、ハリウッドのワーナー・ブラザーズコンコルド・プロダクションとの合作映画の企画が持ち上がり、『死亡遊戯』の製作は中断される。
【死去】
1973年7月20日に、リーは、『死亡遊戯』で共演予定の女優、ベティ・ティン・ペイ(丁珮) の香港の自宅で頭痛を訴え、鎮痛剤(アスピリンを含むEquagesic)を飲んでベッドに横になった。しかし、そのまま昏睡状態に陥ったため、ティン・ペイはレイモンド・チョウを呼び、そのままクィーン・エリザベス病院へ搬送されたが、死亡が確認された。32歳であった。
【そのほか】
ダンスの才能もあり、チャチャが最も得意だった。香港のダンスコンテストで優勝したこともあり、その映像が出回っている。ダンスを習ったのは、武道とは無関係で、単に女性にモテたかっただけといわれている。
哲学を専攻していたこともあり、西洋および東洋思想に精通していたばかりか、ナポレオン・ヒルなどの自己啓発や哲人宗教家クリシュナムルティまで研究していた。その成果は、截拳道の思想面に活かされている。体を壊し、数ヵ月間の療養生活を余儀なくされた期間、数多くの本を読み漁りそれらを合わせると図書館ができあがるほどであった。また画才もあり、古代中国の武術家のイラストで卓越したデッサン力や構図の構成力が発揮されている。

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朝日新聞社 100人の20世紀 上 1999年発行
ブルース・リー (1940-1973) 32歳で死亡 【執筆者】福田宏樹 (一部抜粋しています)
久しぶりに訪れた香港は、相変わらずの活況に見えた。
もうけたやつがえらい、おいしい話に乗り遅れるな、むしゃむしゃ食べ、せかせか歩き、携帯電話をかけまくる、返還直後だったが、「一国二制度」の壮大な実験をしり目に、人々はやはり騒々しく、かつ抜け目なく、立ち動いていた。
そんな中、夕暮れの香港科学館前に列をなす人々は、その静かなたたずまいで際立っていた。ブルース・リーの24回目の命日に集まったファンの人たちだ。
若い人たちに中国の精神を教えた人だと思います」。訒珮明さん(42)は、こちらの問いかけにそう答えた。横では10歳だという息子がはにかんでいる。陳國恩さん(25)は、「中国人として初めて世界に行って出た人だ」と誇らしげにいった。
会場には彼の胸像や写真と並び、「ブルース・リーに続け」という言葉を添えた絵が飾られていた。毛沢東になぞらえたブルース・リーが描かれ、取り巻く人々が「毛語録」の代わりに彼の著著を掲げている。
香港ではブルース・リーは単なる映画スターではない。死後4半世紀を経てなお、民族的英雄といっていい存在だ。テレビでは彼の伝記ドラマが放映され、映画では主演作をモチーフにした新作が撮影中だった。書店では新しい伝記が平積みされ、彼の拳法をイラストで解説したシリーズ本や、劇画週刊誌『李小龍ブルース・リー)』も並ぶ。繁華街の夜店では特大のポスターが何種類も積んであった。
彫像のような肉体、舞踏にも似たカンフーの動き。鍛えたからといってまねできるようなものではないことは、ちょっと見れば分かる。
しかし彼を英雄にしたのは、格闘技の才能だけではなかった。
1972年3月。香港の年代物の映画館が、興奮した観客で揺れた。『ドラゴン怒りの鉄拳』の封切りである。ブルース・リーが日本ではまったく無名だったころだ。
日本支配下の中国。日本人武道家の一団がブルース・リーの学ぶ道場に来て、「東亞病夫」(アジアの病人)と書かれた額を押しつける。小突かれても耐えていたブルース・リーだが、ついに爆発する。
「われわれは病人じゃない!」
額のガラスを割り、「東亞病夫」をびりびりと引き裂くと、相手の口にねじ込む。
日本人を蹴散らし、「犬と中国人入るべからず」と書かれた看板を粉々に砕くブルース・リー。その動き一つひとつに観客は躍り上がった。
興行成績は前年の主演第一作『ドラゴン危機一髪』を軽く超え、香港映画史上の新記録を作る。トレードマークのヌンチャクを映画で使ったのは、これが初めてだった。
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ブルース・リーはボクシングなども研究し、独自のスタイルを作り上げていく。いま人気の総合格闘技のハシリだ。道場を開くまでになり、大学は中退した。やがて武道大会でのデモンストレーションが映画関係者の目に留まり、テレビや映画でわき役に使われるようになる。
もともとなじみの世界だったが、人種の壁は厚かった。カンフーの達人として出演する話も、結局は白人にさらわれてしまう。ロバートさんに憤慨して語っている。
出っ歯で目のつり上がった、おきまりの中国人の役なんて冗談じゃない。死んだほうがましだ」
失意のうちに香港に戻った彼は、3作目の主演映画で地元の大スターになる。3作目の『ドラゴンへの道』になると、脚本から監督、主演、武術指導まで全部一人でこなした。
踏みつけられた者が、こらえきれずに怒りを爆発させる。全作品に共通するのが、このパターンだ。奪われてきた民族の誇りと、米国での挫折がもたらした「見ている」という思いが、心の中でない交ぜになっていたに違いない。
それがカンフーという表現手段を得たとき、世界中の「抑圧された者たち」が熱狂するヒーローが生まれた。東南アジアで軒並み大ヒット。中東のベイルートでは『危機一髪』が、同日封切りの『ゴッド・ファーザー』を上回る観客を集めた。
ブルース・リーの武術指導を手伝った林正英さん(45)は、米国ロサンゼルスで観た光景を語った。
「黒人の観客がいちいち立ち上って、ものすごい歓声なんですよ。白人がやっつけられるのは気持ちがよかったのでしょうね」
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マイノリティーのヒーローとなったブルース・リーは、南米のコロンビアで、アフリカのタンザニアで、切手にまで登場する。
もちろん白人も彼の映画に詰めかけた。しかし、プロヂューサーのモーガンさんは苦笑する。モーガンさんは白人だ。
ブルース・リーとは何だったのか、白人はまるで分かっていない。中国人が白人をやっつける映画。とは見ていないんだ。いいやつが悪いやつをやっつける映画だ、と」
ハリウッド進出を果たした『燃えよドラゴン』にしても、米側が乗り出したのは、アジアで金もうけができれば十分と計算したからだ。中国人の世界的スターを作ることなど考えてもいなかった。そう考えていたのは、「いつかスティーブ・マックィーンより大物になってやる」と周囲に言っておたブルース・リー一人だった。
米国人の監督とわき役を配した『燃えよドラゴン』は、世界でブルース・リーの名を不動にした。日本ではこの映画によって彼が紹介され、旧作も公開されてブームが起きた。
しかし、香港だけは別だった。最も洗練された作品になったにもかかわらず、日本人をなぎ倒した『怒りの鉄拳』や、白人空手家との死闘が呼び物の『ドラゴンへの道』の興行成績に、遠く及ばなかった。
燃えよドラゴン』で、彼は欧米風のスーツも着てみせた。白人もやっつけたが、悪役の総大将は同じ中国人だった。
燃えよドラゴン』の完成直後、ブルース・リーは封切りも待たずに香港で急死する。頭痛薬に拒否反応を起しての病死とされたが、自殺から謀殺まであらゆる憶測が飛び交った。

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