じじぃの「人の死にざま_518_T・E・ロレンス」

トーマス・エドワード・ロレンス - あのひと検索 SPYSEE
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The finish of Lawrence Of Arabia 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=GzPr3R3DNoo&feature=related
Peter O'Toole & Anthony Quinn - Lawrence of Arabia (1962) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=x9QHSeFRsA0&feature=related
トーマス・エドワード・ロレンス フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
トーマス・エドワード・ロレンスは、イギリスの軍人、考古学者。オスマン帝国に対するアラブ人の反乱(アラブ反乱)を支援した人物で、映画『アラビアのロレンス』の主人公のモデルとして知られる。
【生涯】
トーマス・エドワード・ロレンスは1888年ウェールズのトレマドックで生まれた。
1907年、オックスフォード大学ジーザス・カレッジに入学。
卒業後、ロレンスは短期の帰国をはさんで再び中東に戻り、考古学者のレオナード・ウーリーと共にカルケミシュでの調査を続けた。同地での研究のかたわらで、ウーリーとロレンスはイギリス陸軍の依頼を受け、水源確保の点から戦略的価値が高いとされていたネゲヴ砂漠を調査し、軍用の地図を作成している。
1916年10月には、新設された外務省管轄下のアラブ局(局長はホガース)に転属され、同年3月には大尉に昇進。この間の休暇にアラビア半島へ旅行しているが、これはオスマン帝国に対するアラブの反乱の指導者を選定する非公式任務であったと言われる。
1917年、ロレンスとアラブ人の部隊は紅海北部の海岸の町アル・ワジュの攻略に成功した。これによりロレンスの思惑通り、オスマン帝国軍ヒジャーズの中心であるメッカへの侵攻をあきらめ、メディナと鉄道沿線の拠点の死守することを選んだ。続いてロレンスは、戦略的に重要な場所に位置するにもかかわらず防御が十分でなかったアカバに奇襲し、陥落させた。この功により、彼は少佐に昇進している。
戦争終結後、ロレンスはファイサル1世の調査団の一員としてパリ講和会議に出席する。1921年1月からは、植民地省中東局・アラブ問題の顧問として同省大臣のウィンストン・チャーチルの下で働いた。
除隊から2ヵ月後の1935年5月13日、ロレンスはブラフ・シューペリア社製のオートバイを運転中、自転車に乗っていた2人の少年を避けようとして事故を起こし意識不明の重体になった。事故から6日後の5月19日に死去。
アラビアのロレンス (映画)】
アラビアのロレンス』は、1962年のイギリス映画。歴史映画。デーヴィッド・リーン監督、ピーター・オトゥール主演。
実在のイギリス陸軍将校のトマス・エドワード・ロレンスが率いた、オスマン帝国からのアラブ独立闘争(アラブ反乱)を描いた歴史映画であり、戦争映画である。日本での公開は1963年。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
アラビアのロレンス (1888-1935) 47歳で死亡 (一部抜粋しています)
本名はトーマス・エドワード・ロレンスだが、世にアラビアのロレンスと呼ばれる彼は、第一次世界大戦中、当時トルコの支配下にあったアラブの叛乱を指導し、ドイツと同盟を結んだトルコを破って大戦の帰趨(きすう)に甚大な影響を与えた。砂漠の中の彼の戦いは驚天動地のものであったが、しかしその行為は彼にとって必ずしも祖国イギリスのためばかりではなく、祖国なきアラブ人への愛情のためであった。
赫々(かくかく)たる武勲をたて、風雲児の名声一世を圧しながら、戦い終わるや、彼は名をかくし、文字通りの無名の1兵士として英国空軍にはいった。それは、戦争中彼がアラブ人に約束したアラブ独立を、英国政府が履行しないことに対する自責と、彼の不思議な孤独癖と、機械とスピードに対する異様なばかりの嗜好のためであった。
ロレンスは、死を怖れぬ冒険欲と、途方もない自己顕示欲を持つ反面、人間ぎらいの隠遁(いんとん)性と自己抹殺欲とがうらはらになり、かつそういう自分を冷ややかに見まもるもう1つの芸術的な自分を持つという複雑怪奇な人間であった。
1935年2月、10年の兵役満期で除隊になったロレンスは、かねてから念願していた通りドウセット州のクラウズ・ヒルのコテイジに隠栖(いんせい)した。
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ちなみにロレンスは、一生結婚はおろか、女性との性の交渉は一切なかったといわれる。
1週間後の5月13日、かれは1人の友人から、「いまヒトラーと交渉出来るのは君ひとりだ、そのことについて是非面談したい」という手紙を受けとり、その友人と昼食の約束をする電報を打ちに、オートバイで郵便局へいった。若いころから彼は、時速150、160キロで車やオートバイを飛ばすのを無上の快とするスピード狂であった。
その帰途、村道で彼は、自転車に乗った肉屋の小僧を避けようとしてハンドルを切りそこね、オートバイとともに転倒し、頭部を強打して意識を失った。
すぐに彼は近くの陸軍病院に運ばれたが、かってアラビアの砂漠や、航空兵時代に、戦傷だけでも9度、航空事故7度、骨折は33ヵ所、肋骨骨折だけでも11回の経験を超えて生きた超人的な肉体は、さすがに、というべきか、それにもかかわらずあっけなく、というべきか、6日後の5月19日朝、ついに昏睡からさめないまま、肺炎と神像衰弱をひき起こして、絶命した。

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アラビアのロレンス Google 検索
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