丹下健三 - あのひと検索 SPYSEE
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Mode Gakuen Cocoon Tower, Shinjuku, Tokyo, Japan 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=H9nedw-H1R4&feature=related
代々木国立屋内総合競技場 画像
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東京都庁 画像
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丹下健三 ウィキペディア(Wikipedia)より
丹下健三(1913年(大正2年)9月4日-2005年(平成17年)3月22日)は日本の建築家、都市計画家。大阪府出身。
「世界のタンゲ」と言われ、日本人建築家として最も早く日本国外でも活躍し、認知された一人。第二次世界大戦復興後から高度経済成長期にかけて、多くの国家プロジェクトを手がける。また磯崎新、黒川紀章、槇文彦、谷口吉生などの世界的建築家を育成した。従三位勲一等瑞宝章、文化勲章受章。フランス政府よりレジオンドヌール勲章受章。カトリック教徒(洗礼名:ヨセフ)。
【年譜】
・1913年(大正2年) 丹下辰世とテイの三男として大阪府堺市に生まれる。住友銀行社員であった父の転勤によって生後まもなく中国の漢口へ。数年後さらに上海のイギリス租界に移り住む。
・1935年(昭和10年) 東京帝国大学(現・東京大学)工学部建築科に入学。内田祥三、岸田日出刀、武藤清に師事。1学年上に立原道造が在籍していた。
・1965年(昭和40年) 日本建築学会特別賞(国立屋内総合競技場)。RIBAゴールドメダル受賞。
・1996年(平成8年) レジオンドヌール勲章受章。
・2005年(平成17年) 3月22日死去。享年91。
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『文藝春秋』 2010年3月号
ひとを動かす言葉の力 丹下健三(たんげけんぞう) 【執筆者】磯崎新(建築家) (一部抜粋しています)
私はチームの中の一人
私が丹下研究室に入ったのは東大の建築科を卒業して、修士課程に進んだ1958年のことでした。そのとき私は23歳で、丹下さんは18歳年上の41歳の東大助教授でした。それからおよそ10年間は丹下研究室のスタッフとして働き、63年に独立して、磯崎新アトリエを設立してからもおよそ10年感、丹下さんの様々なプロジェクトを手伝いました。
その20年間は、52年に竣工した「広島平和記念公園」、64年の東京五輪の会場となった「代々木国立屋内総合競技場」、70年の「大阪万博」と丹下さんが戦後日本の国家プロジェクトを次々に手がけた時期にあたります。
丹下さんは日本が焼け跡から復興していった、その時代、国家の意志と建築のデザインを見事に一致させていきました。丹下さんが成し遂げた最大の仕事は国家が欲している自画像を建築によって描いたことなのです。
丹下さんは強烈な個性を持ったワンマンのイメージがあるかもしれませんが、仕事の現場ではそうではありません。丹下さんはとく「私はチームのなかの一人だ」といっていました。丹下さんのプロジェクトは、とにかく自由にどんなおかしなものでもいいから、勝手に考えろ、ということから常に始まりました。
最初は明確な指示も構想の元となるスケッチもなく、地図の上にただ1本、線が引かれているだけだったりする。しかし、丹下さんお仕事の進め方をある程度、学んでいれば、その線が何を意味するかわかるのです。そこからスタッフはいくつものアイデアを出し、それを丹下さんが取捨選択し、「これをディベロップ(発展)してください」と指示する。スタッフはさらにそのアイデアを追求していき、複数の案が丹下さんの前に並ぶ。そして丹下さんがさらに練るべき案を選び出す。その繰り返しですから、膨大なプランが提出され、採用なれない殆どのアイデアは無駄になります。A案とB案をやっておいてくれ、といわれて進めていると、翌朝にはやっぱりどちらでもない、前に捨てた案がいい、なんていいだすこともよくありました。
最終的な形に到達するまで丹下さんはいつ終わるとも知れない思考錯誤を重ねました。このやり方だと弟子は丹下さんの意図を自分で考え抜かなければなりませんから、すごく鍛えられます。丹下さんには優れた弟子を育てようというつもりはなかったでしょうが、丹下研究室からは私のほかにも槙文彦さんや黒川紀章さんといった建築家が巣立っていきました。
私は今、中国でよく仕事をしているのですが、中国人のスタッフはまず、このような時間がかかる方法に耐えられないようです。彼らにとっては単なる無駄に見えてしまう。
でも、この過程は非常に重要です。丹下さんはやみくもに進んでいるわけでなく、言葉にならない、しかし確かに掴んでいるイメージと練られた案を照らし合わせながら、美しいか否かを判断し、前進していく。つまり、先を「読み」ながら、その過程を統御している。その「読み」が恐ろしく深いから、いつの間にかちゃんと丹下さんのイメージに合致する最終形に到達できるのです。その過程で丹下さんが「困ったな、どうしよう」といった言葉を発する瞬間に立ち会ったことこそが、茶銅や武道でいう「口伝」の部分で、そのような場面で多くのことを学んだような気がします。私のアトリエも丹下さんに近いやり方で仕事を進めていますが、丹下さんに明確に教わったのは、行き詰まったら元に戻れ、ということだけかもしれません。
丹下さんのような方法は世界的に見ても独特なようです。欧米ではアーティストとしての建築家が自分が実現したいイメージをまず描き、それを基にプロジェクトを進めます。しかし、丹下さんはかなりの部分をスタッフに任せる。でも、リーダーは丹下さんにほかならない。優れたスタッフや協力者を探して集結させ、それぞれの分担を決め、全体を統括しているのは丹下さんだからです。音楽でいえば、丹下さんは作曲をし、優れた奏者を集めて、オーケストラに編成し、指揮棒も振ることができた。建築の世界に限らず、そのようなことができる人というのはそうそういるものではありません。
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丹下健三 Google 検索
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&prmd=ivnso&tbm=isch&source=univ&sa=X&ei=XO2kTYuwMIjzrQe7i_34CQ&ved=0CBwQsAQ&q=%E4%B8%B9%E4%B8%8B%E5%81%A5%E4%B8%89%20%E7%94%BB%E5%83%8F