じじぃの「人の死にざま_1056_FR・ライト」

フランク・ロイド・ライト - あのひと検索 SPYSEE
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Frank Lloyd Wright Imperial Hotel 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=aCLccWL7h-4&gl=JP&hl=ja
フランクロイドライト 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=9EEF8e1e8xo
フランク・ロイド・ライト ウィキペディアWikipedia)より
フランク・ロイド・ライトFrank Lloyd Wright)は、アメリカの建築家。
アメリカ大陸で多くの建築作品があり、日本にもいくつか作品を残している。ル・コルビュジエミース・ファン・デル・ローエと共に「近代建築の三大巨匠」と呼ばれる(ヴァルター・グロピウスを加え四大巨匠とみなす事もある)。
【生涯】
1913年、帝国ホテル新館設計のために訪日。以後もたびたび訪日し設計を進めたが、大幅な予算オーバーと工期の遅れに起因する経営陣との衝突から、このホテルの完成を見ることなく離日を余儀なくされた。ホテルの建設は弟子の遠藤新の指揮のもとその後も続けられ1923年に竣工した。
カウフマン邸/落水荘数々の不幸に見舞われ、公私にわたり大打撃を受けたライトであったが、1930年代後半になるとカウフマン邸(落水荘)、ジョンソンワックス社と相次いで2つの代表作を世に発表し、70歳代になって再び歴史の表舞台に返り咲くことになる。 2作ともにカンチレバー(片持ち梁)が効果的に用いられた。同時期にはプレイリースタイルの発展形である「ユーソニアン・ハウス」と名付けられた新たな建設方式を考案し、これに則った工業化住宅を次々と設計した。ここでは万人により安価でより良い住宅を提供することが目標とされた。1936年のジェイコブス邸はその第1作目の作品である。
そのスタイルには変遷もあり、一時はマヤの装飾を取り入れたことがあるが、基本的にはモダニズムの流れをくみ、幾何学的な装飾と流れるような空間構成が特徴である。浮世絵の収集でも知られ、日本文化から少なからぬ影響を受けていることが指摘されている。

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朝日新聞社 100人の20世紀 上 1999年発行
フランク・ロイド・ライト (1867 - 1959)  【執筆者】山本健一 (一部抜粋しています)
帝国ホテルは4年がかりの工事を終え、その日昼から、500人の来賓を招いて落成披露お昼食会を開くところだった。
設計施工を任されたライトの姿はない。膨れ上がる工事費のため、前年に解任され、帰国していた。
午前11時58分、M7.9の関東大震災が起きた。死者・行方不明者10万人余り、約40万戸が壊れたり焼けたりした。
帝国ホテルは崩れなかった。客室245室のうち、使えなくなったのは7室だけ、焼け落ちた朝日新聞社や在京の欧米大使館のため、臨時に客室を提供したほどだった。
ロサンゼルスにいたライトに、スタッフから連絡が入った。
「本日、東京より次の電報を受け取った。『ホテルは、あなたの天才の記念碑として無傷で建っている。おめでとう』。帝国ホテルのオークラ氏の名前がある」
「無傷神話」は、どうもこのあたりから生まれたようだ。
政府は被害調査委員会をつくり、東京と横浜の重要建造物120ヵ所を調べている。それによると、帝国ホテルは無傷ではなかった。
地下プールのコンクリート柱が折れ、壁には裂け目ができている。演芸ホールの石柱も倒れた。基礎はすでに震災前から沈下した部分があった。ホテルのすぐ近くにある。司法省や海軍省で、そうした被害は見られなかった。
資生堂会長の福原義春さんは、「無傷神話が生まれたことが、ライトの天才のあかしなのでしょう」という。
福原家は箱根に、ライトが設計した別荘を持っていた。しかしそれは、震災の最初も一揺れで全壊してしまった。
「父は、ライトの建物すら壊れたのだから不可抗力だといっていた。しかし、全壊した写真をあとで専門家に見せると、耐震設計ではないといっていました」
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ライトが最初に接した日本建築は1893年、シカゴの世界博覧会に出展された日本政府館の鳳凰殿だ。書院造りなど、時代様式の違う3棟を渡り廊下でつなげたものである。日本から派遣された職人が半年がかりでつくり上げた。
自分も出展建築の設計をしていたライトは、現場の行き帰りに鳳凰殿の工事を見守った。彼が感動したのは、内外の境が引き戸や障子1枚という日本家屋の開放性だった。
その後、1905年から帝国ホテルを建てていた22年まで、何度も来日した。資生堂の福原邸の工事現場には、母親を背負って案内したりしている。浮世絵や日本美術を集め、カメラを持って各地を旅行した。被写体は伝統建築であり、建物と一体になった日本庭園だった。
その影響は、洋風建築にも表れている。機能だけの高層ビルではなく、低くどっしりしたデザイン。やわらかな大谷石の内装。「日本との調和」を目指したライト建築だ。
ライトが中産階級向けに開発したのが「ユソニアン住宅」だ。手ごろな価格でありながら充実した住宅である。
ダリアセン東でグラフィックデザインを教えているスーザン・ロックハートさんは、そのユソニアン住宅第1号で育った。
設計料450ドルを含めて建築費は総額5500ドル。壁板は合板だが、簡易カ―ボード、床暖房までついている。
スーザンの父がライトに設計を依頼したのは36年だった。
「父はライトのシンプルなデザインに新しい時代の魅力を感じた。そこで彼に、5000ドルの家を建てることこそ、大恐慌を経験した今の米国には必要だと説いたのです」
ライトの設計の先見性には驚かされる。
イリノイ州のユソニアン住宅で、車いすで自立生活をしているケネス・ローレントさんは、「半世紀もここで暮らしているが、まったく不自由を感じない」という。
家の中に段差がない。居間から車いすのままテラスに出られる。廊下は広く、車いすが楽に使える。リハビリ用の運動スペースもある。
「室内が外とつながっている。いつも自然の光の中で暮らしているようだ」とローレントさんはいう。
日本建築の影響が大きかった。深く長いひさし。隅の壁はガラス張りで、外の自然がさりげなく室内と結ばれる。屋内はドアが少なく連続しており、部屋の凸凹で視線をさえぎっているだけだ。ことさらプライバシーにこだわろうとはしていない。
日本の家には無意味なものは何もない。単純さが最高のものである国だ。
ライトは高層ビルも建てた。しかし彼の本領は住宅だった。自然との一体感とシンプルさ。大草原に生まれ、日本建築にひかれたライトが、20世紀建築に突きつけたカルテだった。

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