じじぃの「人の死にざま_1435_今井・信郎」

大映映画 「維新の曲」

今井信郎 ウィキペディアWikipedia)より
今井 信郎(いまい のぶお、天保12年10月2日(1841年11月14日) - 大正7年(1918年)6月25日)は、江戸時代末期(幕末)から明治初期の武士(幕臣)。京都見廻組に参加しており、近江屋事件で暗躍したとされている。明治維新後は、自由民権運動を展開した三養社に携わり、榛原郡初倉村(現在の静岡県島田市初倉地域)の村長を務めた。
【生涯】
遊撃隊頭取として京都に赴き、上京後は佐々木只三郎京都見廻組に参加した。
イギリスの「歩兵操練・図解」を翻訳し、江戸幕府の洋式歩兵部隊の編成を古屋佐久左衛門により組織された衝鋒隊の副隊長になり、戊辰戦争においては最後の箱館戦争まで戦い抜いた。明治3年(1870年)、箱館で降伏。囚われの身となっていた際に近江屋事件の糾問を受け、坂本龍馬暗殺に関わったと自供し、裁判により禁固刑となったが、明治5年(1872年)に特赦により釈放された。この釈放には西郷隆盛の口添えがあったともいわれるが、西郷と信郎の関わりを確認出来る史料は見つかっていない。

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『ぶらり日本史散策』 半藤一利/著 文春文庫 2010年発行
坂本龍馬は邪魔者だった? (一部抜粋しています)
いまもって忘れることのできぬ映画がある。「維新の曲」というオールスター・キャストのチャンバラ映画である。
はじまると、すぐ池田屋への新撰組の殴り込みの大殺陣。さらに脳漿(のうしょう)にこびりついているのが、ご存じ近江屋での坂本龍馬の最期。扮するのがバンツマこと坂東妻三郎。暗殺者の太刀を刀の鞘ごとガッキと受ける。こじりが天井を突き破る……。いやもう怒髪天を衝き、眼をカッとむいたバンツマの凄絶という最後の顔。坂本龍馬という名を知ったのはこのときであった。
昭和17年(1942)5月14日に封切りの大映映画、すなわち日活、新興、大都の映画3社が解体・再編成して創立された大日本映画製作株式会社の、これが第1回超大作。それで旧3社のスターのバンツマ、片岡千恵蔵嵐寛寿郎市川右太衛門、高山広子、橘公子、市川春江エトセトラが総出演であったのである。
わたくしは当時12歳、小学校6年生のとき。頼りにならない記憶でいうのであるが、戦前には坂本龍馬といういまの超ヒーローは、それほど人気者ではなかったと思う。龍馬をだれが殺したか、なんてわが悪ガキ時代に議論の対象になったことはない。西郷や桂や大久保たちを尻目に、歴史の大道を闊歩するようになったのは、司馬遼太郎竜馬がゆく』のお蔭なのである。
なぜか? 明治新政府の高官たちがそのことにあまり触れたくなかったから。
という推理を一席やる前に、まずは慶應3年(1867)11月15日夜のことを。龍馬暗殺の犯人は見廻組与力頭の今井信郎である。2、30年も前、その直孫にあたる亡き今井幸彦さん(共同通信記者)から、今井家に伝わる龍馬殺害の実録を聞いたことがある。すなわち京都三条河原町の近江屋の2階の名場面――。
組頭の佐々木只三郎から「情報で坂本龍馬の隠れ家が判明。直ちにきゃつめを殺せ」の命を受け、信郎が近江屋の2階座敷に入ったとき、八畳間に浪人風の男が2人座っているのを見た。信郎にはどちらが目指す龍馬なのかわからなかった。そこで片膝を折って、
「坂本先生、お久しぶりです」
と丁寧に頭を下げて挨拶をした。すると右手にいた1人が顔をこちらに向けて、
「どなたでしたかなあ」
といった。信郎は瞬間、太刀を抜き放ちざまその男の額を力一杯にさっと横に払った……と。
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のちに高知新聞の求めに応じ、信郎の娘であった人が語ったそうな。
「あの夜、信郎が外から帰ってくると、部屋に籠もって出てこない。襖を開けてみると、右手の傷を焼酎で洗っている。中指がザックリそがれていた。中岡慎太郎に斬られたと話していました」と。
というわけで、斬った人は決まりといっていいかと思う。が、問題は斬らした黒幕はだれか。わたくしはそれを西郷隆盛大久保利通と推断している。要するに、情勢がどう変ろうと、武力による断固討幕を一毫(いちごう)たりとも揺るがそうとしない薩摩の2人である。彼らにとって、大政奉還をうけて、新政府は慶喜を筆頭に、有力大名らの諸侯合議制にするという公武合体論で動き出した龍馬は、いまや危険な政敵として排除すべき人物となったのである。事件の前日に大久保は国もとより京都に戻り、武力討幕のための総指揮をとる。戦いの前に、”邪魔者は殺せ”である。それに当夜龍馬の居所を知る手立てをもっているものは大久保がいちばんであった。