じじぃの「人の死にざま_492_阪東・妻」

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坂東妻三郎 動画 YouTube
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田村四兄弟が語る父・坂東妻三郎 (1/7) 動画 YouTube
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阪東妻三郎 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
阪東妻三郎は、日本の映画俳優である。本名田村 傳吉(たむら でんきち)、サイレント映画時代に岡山 俊太郎(おかやま しゅんたろう)の名で監督作がある。身長 172センチメートル。
愛称は「阪妻」(バンツマ)、二枚目の帝。大正末年から昭和初年にかけての剣戟ブームを生み出した日本の代表的剣戟俳優であり、「剣戟王」(けんげきおう)と呼ばれる。
【来歴・人物】
1901年(明治34年)12月14日、東京府南豊島郡角筈村(現在の東京都新宿区西新宿)に、木綿問屋の息子として生まれる。
1925年(大正14年)、『雄呂血』を公開。その虚無的な英雄像はその時代の風潮ともマッチし、大ヒットとなる。また、その大胆な殺陣で「乱闘劇のバンツマ」として一世を風靡する。松竹と提携し、ヒット作を飛ばすが、阪妻のヒーロー像は次第にマンネリズムを生み、人気は徐々に低落する。
戦時中は『血煙高田の馬場』、『魔像』、『江戸最後の日』、『将軍と参謀と兵』、『無法松の一生』などの傑作に主演、戦後には、時代劇では『大江戸五人男』、天才棋士坂田三吉を演じた『王将』、コミカルな現代劇『破れ太鼓』などの作品に主演し、大河内伝次郎とともに正真正銘の「スター」であり続けた。
1953年(昭和28年)7月2日、『あばれ獅子』撮影中に持病の高血圧から体調を崩し、同年7月7日脳内出血により死去。
妻は伏見直子。5人の子どものうち、長男の高廣(2006年死去)、三男の正和、四男の亮の3人は俳優となり(二男の田村俊磨は実業家で、高廣・正和のマネージャーも務めた)、その活躍は現在に至る。婚外子に俳優の水上保広がいる。

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『人間臨終図巻 上巻』 山田風太郎著 徳間書店
阪東妻三郎(ばんどうつまさぶろう) (1901-1953) 52歳で死亡 (一部抜粋しています)
昭和17年無法松の一生」で、奇蹟的な名演技を見せた阪東妻三郎は、昭和28年7月1日午後、松竹京都撮影所で「あばれ獅子」撮影中、付人がうちわで煽(あお)いでいると、寒い、といった。その日帰宅してから不快感を訴え、床についたきり、ふたたび起きなかった。持病の高血圧の悪化によるものであった。
そして七夕(たなばた)の午後、しずかに息をひきとった。
日本映画史上、指おりの大スター・バンツマの死にしてはあっけなく、いましばらくの生命をかしてやりたかった俳優であったが、いまだ老衰の徴(きざし)の現れないうちにこの世を去ったのは、彼の幸福であったかも知れない。
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その墓は、彼が晩年住んだ京の嵯峨野の二尊院にあるが、その墓地の片隅に、さして目立たぬふぜいに建てられ、その墓石には「田村家累代之墓」とあり、横に「昭和19年10月建田村伝吉」とあるのみで、田村伝吉は彼の本名だが、不出世のチャンバラ王阪東妻三郎の名はどこにもない。昭和19年には妻三郎はまだ在世中だから、これは彼の意志である。

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