じじぃの「人の死にざま_481_梅原・龍」

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梅原龍三郎 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
梅原龍三郎は、日本の洋画家。京都府京都市下京区生まれ。左利き。
1914年(大正3年)までは名を良三郎と名乗る。画風は華やかな色と豪快なタッチが特徴とされ、自由奔放と評される。第二次世界大戦前から昭和の末期まで長年にわたって日本洋画界の重鎮として君臨した。
晩年に使用した吉田五十八設計の東京都市ヶ谷のアトリエが山梨県北杜市清春芸術村に移築され公開されている。
【略歴】
京都府京都市下京区に生まれる。生家は染物問屋であった。
・1908年(明治41年)に田中喜作(後に美術史家となる)と共にフランスに留学。パリに滞在しアカデミー・ジュリアンに通った。
・1909年(明治42年)にピエール・オーギュスト・ルノワールの指導を受ける機会を得た。知人の有島生馬を通じて、1910年(明治43年)にはルノワールについてや、パリの芸術について、雑誌『白樺』に寄稿している。
・1913年(大正2年)に帰国し、東京神田で個展「梅原良三郎油絵展覧会」を白樺社の主催で開催。この際に白樺社同人の武者小路実篤志賀直哉柳宗悦との知遇を得た。
1920年大正9年)に再び渡仏するが、前年に死去したルノワールの弔問のためでもあったという。
・1922年(大正11年)に春陽会の設立に参加。その後、春陽会を去り、1925年(大正14年)に土田麦僊の招きで国画創作協会に合流し、国画創作協会洋画部(第2部と称した)を設置した。1928年(昭和3年)に国画創作協会が解散した際に、洋画部が独立し「国画会」となった。
・1935年(昭和10年)に帝国美術院会員となる。37年これが拡充された帝国芸術院(現日本芸術院)会員となる。1944年(昭和19年)には帝室技芸員東京美術学校(現:東京芸術大学)教授となる。
・1952年(昭和27年)に東京芸術大学教授を辞任し、渡欧しヴェネツィアビエンナーレの国際審査員を務めた。同年文化勲章受章。1953年(昭和28年)に軽井沢にアトリエを設けた。1957年(昭和32年)に日本芸術院会員を辞任。様々な役職を辞した後は渡欧を繰り返し、自由な立場から制作に励んだ。少年時代より良きライバルであった安井曽太郎とともに洋画界の頂点を極め、「日本洋画壇の双璧」と称された。ヨーロッパで学んだ油彩画に、桃山美術や琳派、南画といった日本の伝統的な美術を自由に取り入れ、絢爛たる色彩と豪放なタッチが織り成す装飾的な世界を展開した。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
梅原龍三郎(うめはらりゅうざぶろう) (1888-1986) 98歳で死亡 (一部抜粋しています)
梅原龍三郎は昭和38年、75歳のころ「もうせいぜい3、4年のいのちだし、人の知らないところでそっと消えてゆきたいんだ。お葬式に悲しそうな顔をして人が来てくれても、別にどういうこともないしね」と、いった。
翌年には、朱を入れた自分の墓を作り「死んでからずっとあとになって、ああ、あれは去年亡くなりました、という風にしたいもんだね」といった。
自分の死についての彼の消極的な哲学は、最後まで一貫している。ところが一方で、彼は生きている現在の人生には極めて積極的であった。彼は3ヵ条の健康法を守った。
一、寝酒を少量飲んで熟睡を計る事。
二、日がながくなれば午睡する事。
三、腹のへるのを待って九分目に食う事。
八分目でないところがグルマン梅原らしい。昭和52年、89歳のとき彼は「朝日新聞」のインタビューで答えている。
「食事は、朝はまあトーストにキャビアだ。昼は牛乳を主としたスープにバターを入れ、塩と胡椒(こしょう)をふりかけたもの。夕飯はウナギの蒲焼に中華料理を3日に一度。・・・・」
朝からストレートのスコッチ・ウイスキーを飲み、ビフテキと鰻を好み、怖ろしいヘビースモーカーである美食生活は晩年まで変わらなかった。
同じ昭和52年に艶子夫人が亡くなったとき、梅原はだれにも知らせず、それでもやって来た弔問客のだれにも会わず、ひとり画室にこまって、妻の「葬壇」の絵を描いていた。
本『図巻』に見るように、一般に画家に長命者が多いように思われる。それはいろいろ理由があるだろうが、中でも職業上、絵を描くという行為が、外部からのストレスを遮断するのに盛るっとも容易有効な方法となることが多いせいではあるまいか。−−妻の死んだ夜の梅原のこの行為のごとき、その例である。
「いまから3年ほど前、梅原先生が94歳の時だったろうか」
と、梅原に愛された女優高峰秀子は書く。
「加賀町のお宅を訪ねてみると、パジャマにガウン姿の梅原先生が、『背中が痛くて、痛くて』とソファにひっくり返って唸(うな)っている。聞けば、画室で裸のモデルととっ組み合いをしたせいで、ということで、私はビックリした。
『とっ組み合いって、モデルさんと喧嘩でもしたんですか?』
『いやいや、大いに違う。喧嘩どころか仲良くしようと思ったんだ。・・・・でもさ、努力したけどダメだった』
『!?』」
      ・
梅原は昭和50年ごろ白内障を患い、絵筆を持つことが不可能となっていたのである。同時に、肉体的にも精神的にも、いわゆる恍惚の世界にはいりつつあった。
この昭和58年に、梅原の娘紅良は父の近況を次のように述べる。
機嫌のいいときはしゃべるけれど、そうでないときは夢うつつの境のいるような表情で、ろくに返事もしない。食事をしている最中にも時たまそんなことがある。それもふつうの老人のいわゆる恍惚状態とはちがって、何かに集中しているように見える、心ここにあらず、といったふうに、一点に息を凝(こ)らしている感じで、声をかけることも憚(はばか)れる、と。
そのころ、梅原は白洲正子に語った。
「わたしはこの頃、寝ていても起きていてもよく夢を見るんだが、夢の中に今まで見たことのないような美しい景色が現れる。美しい色が見える。だからわたしは、もう絵を描くことは要(い)らないんだ」
また。
「年をとってから、よく死ぬことを考え、どうやってうまく死のうか、と、そればかり考えていたが、近頃は死ぬことも忘れてしまったようだ」
と、いって笑った。その顔は美しい血色をしていた。
晩年は、転倒と風邪が致命のひきがねになることを怖れてそれだけを特に警戒していたが、やはりひきがねになったのは風邪であった。
昭和60年12月25日、風邪による痰(たん)をつまらせて呼吸困難に陥り、信濃町の慶応病院に入院した。入院前に、朦朧(もうろう)とした状態で医者に「アトリエに描きかけの絵がある。見て来たまえ」と、いった。むろん、そんなものはなかった。
以後一進一退、翌昭和61年1月14日から嗜眠(しみん)状態に陥り、それでもベッドから腕を出して絵を描くしぐさをした。そのうち狭心症の発作を何度か起こすようになり、ついに肺炎となり、1月15日、「腕が痛みますか」という医者の問いに、「心配ない、心配ない」と答えたのが言葉としては最後のもので、翌16日午後7時32分、看護者によれば「軟着陸」のような感じの大往生をとげた。
かねてから書いてあった遺書には、
「葬式無用
 弔問供物固辞する事
 生者は死者の為に煩(わずら)わさるべからず。
                              梅原龍三郎
と、あった。

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梅原龍三郎 
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