じじぃの「人の死にざま_1140_吉田・博」

吉田博 - あのひと検索 SPYSEE
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吉田 博 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=LD7xZ0iSUHM
吉田博 「越後の春」 画像
http://www.spmoa.shizuoka.shizuoka.jp/japanese/collection/symphony/fukei/imgs/pt2_14_01.jpg
吉田博の版画アルプス 「ユングフラウ山」 画像
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吉田博 ウィキペディアWikipedia)より
吉田博は、日本の洋画家、版画家。自然と写実そして詩情を重視した作風で、明治、大正、昭和にかけて風景画家の第一人者として活躍した。
【経歴】
1899年、中川八郎と共に渡米し、デトロイト美術館で「日本画家水彩画展」を開催する。翌1900年には、ボストン美術館で2人展を開催し成功する。その後渡欧して、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアなどを巡歴し、パリ万博において、日本現代画家作品展示『高山流水』が褒状を受けている。米国へ戻り、満谷国四郎、河合新蔵、鹿子木孟郎、丸山晩霞、中川八郎などと、ボストン・アート・クラブで「日本画家水彩画展」を開催する。
1902年、前年に解散した明治美術会を引き継ぐ形で、吉田の発案により、満谷国四郎、石川寅治、中川八郎らと太平洋画会(現・太平洋美術会)を結成。同年、第1回太平洋画会展を開催し、『榛名湖』など13点を出品する。1903年の第2回展では『昨夜の雨』など21点を出品している。後に、太平洋画会は黒田清輝らが創設した白馬会とともに、明治時代の画壇を二分する団体として発展していく。
1903年、2度目の渡米で、ボストンを拠点に展覧会を開催し、1904年、セントルイス万博に、『雨後の桜』、『昨夜の雨』など3点を出品し、銅賞碑を受賞する。この2度にわたる渡米により、画風の基礎が出来上がり、かつ豊かになった。その後、ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンDCなどで展覧会を開催し、欧州諸国、及びモロッコ、エジプトを巡歴して、1906年帰国する。
戦後は、欧米での知名度が高かったせいか、吉田のアトリエは進駐軍の芸術サロンのようになった。敗戦直後の1945年(昭和20年)の秋には、いち早くダグラス・マッカーサー夫人も、下落合のアトリエを訪問している。米軍のバンカースクラブ(将校クラブ)での版画講習会や、参加者をつのってアトリエ見学会が毎月開かれるなど、吉田作品の人気はきわめて高かった。1947年、太平洋画会会長に就任し、第3回日本美術展覧会日展)の審査員をつとめ、『初秋』を出品する。

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『かくもみごとな日本人』 林望/著 光文社 2009年発行
新しい光 吉田博(よしだひろし、1876 〜 1950) (一部抜粋しています)
近代日本風景画の旗手吉田博は、明治9年元久留米藩士上田束の次男として生まれたが、修猷館(しゅうゆうかん)中学の図画教師吉田嘉三郎に認められて養子となり、京都へ画業遊学に上った。
17歳の頃に描いた水彩画などをみると、その写実の冴えに圧倒される。しかしやがて京都に飽き足らず上京、小山小太郎の不同舎に入る。
明治26年黒田清輝が帰朝、一躍時代の寵児となったが、このとき果敢に黒田と対抗したのが吉田博である。
吉田は盟友中川八郎と共に、裸一貫片道切符で渡米する。時に23歳。
しかしデトロイトでの2人展は大成功で、欧州遊学の資を得た。24歳の時にパリ万国博に大作『高山流水』を出品して受賞、以後彼は主にアメリカの画壇で華々しい注目を浴びる。
帰朝後の吉田の絵を見るとその色調が一変している。欧米の天地が新しい光を教えたのだ。明治43年には34歳の若さで文展審査員となり、洋画壇一方の雄として気を吐いたが、黒田との確執から次第に公設展への熱意を失っていく。
その代わり、大正9年に渡辺木版所から「明治神宮神苑」を出したのを皮切りに新版画の世界に進出すると、以後木版画の制作が主たる活動となって、油絵などは従となった。
この木版画での成功は彼にとって明暗半ばするところがある。新版画の吉田というレッテルが貼られる結果となって、油絵や水彩に於ける手腕と才能が忘れられがちになったからである。
しかし、吉田の画業の本領はどうみてもゆるぎない油彩と優しく緻密な水彩の肉筆風景画にあると私は考える。
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思うに、吉田は北版画の下絵画家であるには、あまりにも絵がうますぎた。彼の画業は、油彩と水彩に立ち戻って再評価してしかるべく、そこに横溢(おういつ)する写実の中の風韻はちょっと他の追随を許さない。
吉田の制作意欲は老来少しも衰えることなく、昭和25年に73歳で突然に世を辞するまで続いた。

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吉田博 Google 検索
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