じじぃの「人の死にざま_1101_児島・虎次郎」

児島虎次郎 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E5%85%90%E5%B3%B6%E8%99%8E%E6%AC%A1%E9%83%8E/27467
児島虎次郎 「里の水車」 画像
http://www.k2.dion.ne.jp/~pega/LOVELOG_IMG/97A282CC90858ED42.jpg
児島虎次郎 「情の庭」 画像
http://www.k2.dion.ne.jp/~pega/LOVELOG_IMG/82C882B382AF82CC92EB.jpg
徒然に名画を日本に『児島 虎次郎』 賢者の石ころ
http://blogs.dion.ne.jp/sekisindho/archives/6176799.html
児島虎次郎:学校・園所蔵の作品公開――倉敷市立美術館 /岡山 2013年1月13日 毎日jp
倉敷市内の学校や幼稚園が所蔵する高梁市出身の洋画家(1881〜1929)作品のうち、9点が倉敷市立美術館に展示されている。3月20日まで。
大原孫三郎の支援を受け、大原美術館のコレクションの基礎となる作品を選んだことで知られる虎次郎は生前、自作を売ることがなかったため、約700点が遺族の元に残った。戦後、孫三郎の長男、総一郎と虎次郎の遺族が遺作の有効活用を話し合い、51年ごろに旧倉敷市内の小、中、高校や幼稚園、保育園に寄贈した。
http://mainichi.jp/feature/news/20130113ddlk33040275000c.html
児島虎次郎 ウィキペディアWikipedia)より
児島虎次郎(こじまとらじろう、明治14年1881年)4月3日 - 昭和4年(1929年)3月8日)は、日本の洋画家。
明治41年(1908年)ヨーロッパに留学。明治42年(1909年)ベルギーのゲント美術アカデミーに入学。明治45年(1912年)には同校を首席で卒業し、大正元年となった同年11月に帰国。大正2年(1913年)石井十次の長女・友子と結婚。その後、絵画制作の傍ら中国・朝鮮を旅行。また、孫三郎の依頼を受け絵画買い付けのため数度ヨーロッパに渡りモネ、エル・グレコゴーギャンロダンなどの作品を購入した。この収集品が後の大原美術館建設の礎となった。なお、倉敷アイビースクエア内に、彼を顕彰し大原美術館別館として「児島虎次郎記念館」が開設されている。
大正13年1924年明治神宮奉賛会より明治天皇を讃える壁画の作成を依頼された。しかし病に倒れ、この作品を完成することなく昭和4年(1929年)死去した。享年47。

                                • -

『絵のまよい道』 安野光雅/著 朝日新聞社 1998年発行
児島虎次郎 (一部抜粋しています)
児島虎次郎は、明治14年(1881・ピカソもこの年に生まれている)、岡山県成羽町に生まれた。1901年、画家になろうとして上京し。白馬会の研究所に通う。やがて東京美術学校西洋画科に入学し、黒田清輝藤島武二の指導をうけ、1904年に卒業した。東京府勧業博覧会に「情(なさけ)の庭」(岡山の孤児院に題材をとったもの、宮内庁買い上げ)、「里の水車」を出品し、一等賞をうけた。「里の水車」は大原美術館にある。
隣で、この絵を見ていた青年が「なあ、写真みたいや、な、まるで写真みたいや」と友達に話しかけ「ほんま写真やな」と言っていた。デッサンのしっかりした三人の人物が、やや逆光ぎみに、入ってくる光に浮かび、陰影のはっきりした絵になっている。するとどうしても写真のように明確になってくる。
いま「写真みたい」というのは、必ずしも絵の「誉め言葉」ではないが、当時は、ほかに誉める言葉を知らぬ場合を含めて、せいいっぱいの賛辞だった。明治の画風は一般に「写真みたい」であることをめざし、明暗にこだわっているうちに絵はしだいに暗くなった。
これは日本だけではない。印象派以前の絵は一般に暗い。ゴッホの「馬鈴薯を食べる人々」などはもっと暗い。デッサン、描写力のことを言えば、ゴッホより児島虎次郎の方がよほどしっかりしている。
わたしが占師だったら「この絵を描いた人は、真面目で実直で努力型で、とても頭のいい人のはずだ」と言うだろう。こういう絵の描ける人は経験のうえからそのような人が多い。大原孫三郎は大金を託して彼に作品の収集を依頼し、彼はその期待を裏切らなかったが、その事実を隠しても、虎次郎の絵は彼が尊敬していたというミレ―のように誠実である。
この水車小屋は郷里の成羽町に取材したものだという。この水車小屋はこの絵のように、おそらく谷川のそばの崖にそって造られ、石段を下ると木造の水車のからくりが丸見えになった機械室に出る。そこには、水車の力で臼をつく杵(きね)が仕掛けられ、1日中、ごっとん、ごっとんと音をたてていた。米をつけば甘くやわらかい感じの糠(ぬか)の匂いがたちこめ、杵の音、水車の音、水車のしぶきなどで騒がしいことはこの上もないが、そのリズムがこころよくて、いつしか音が気にならなくなり、むしろ静かだ、という錯覚さえ感じるほどになる。
直射日光はあたらない、どこからともなくまわりこんでくる反射光につつまれているが、外の光のように明るくはない。また、こどもを描くのは難しいものだが、ここではこどもを含めて、人物がしっかり描けていることは、「誉め言葉」として言うのだが、写真に負けない表現になっている。
計算上、虎次郎が26歳の時の作品である。彼と同じ年に美術学校を卒業した青木繁(25歳)は、やはり同じ博覧会に「わだつみのいろこの宮」を出品したが、三等末席だった。それにしても明治の天才たちの仕事には敬服するほかはない。

                                • -

児島虎次郎 Google 検索
http://www.google.co.jp/images?hl=ja&rlz=1T4GZAZ_jaJP276JP276&q=%E5%85%90%E5%B3%B6%E8%99%8E%E6%AC%A1%E9%83%8E&gs_l=hp...0l5j41.0.0.2.2363502...........0.KBpLGGN2H5M&sa=X&oi=image_result_group&ei=-pkpUcfcCqnNmAX5iYCIBg&ved=0CB8QsAQ