じじぃの「人の死にざま_1150_熊谷・守一」

熊谷守一 - あのひと検索 SPYSEE
http://spysee.jp/%E7%86%8A%E8%B0%B7%E5%AE%88%E4%B8%80/33715
Radio Bar 第十三回 「熊谷守一」特集 1/2 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=aX6ijCNdyFI
熊谷守一作 「蟻を見る」 1971

熊谷守一作 「水滴」 1961

豊島区立 熊谷守一美術館
http://kumagai-morikazu.jp/
熊谷守一美術館初訪問記とNHK 『男前列伝』 霞か雲か
http://happyeverafter.txt-nifty.com/happy_ever_after/2010/12/post-0bb8.html
へたも絵のうち (文庫) 感想 熊谷 守一  読書メーター
ひたすら努力をしたり何かを抑制して頑張ったりすることが必ずしも良い結果につながるとは限らない(悪い結果になった時の気休めにはなるけど。こんだけやってだめだったんだからっていう)ということと、対象の飽くなき観察がものをつくるときのすべてであるということは私も日頃思っていることですが、そういう考え方が固まってきた背景には熊谷守一が幾分影響していると思う。小さい頃から地元岐阜の美術館でよく熊谷の絵を見ていました。
http://book.akahoshitakuya.com/b/4582763251
美の巨人たち 熊谷守一『雨滴』 2010年1月30日 テレビ東京
【ナレーター】小木薫
今日の一枚は熊谷守一作『雨滴』。「見る」ことにこだわり、あらゆるものを観察した画家が、自宅の庭で雨粒が落ちる一瞬を描いた作品です。
木の板に、のっぺりと黄土色が塗られています。そこに白い雨粒がポツポツと落ちていきます。大地と触れ合い、ぶつかると、赤い輪郭の波紋が広がります。守一がこの絵で使用した色はわずかです。守一の目は、雨粒が落ちるその一瞬を、的確に捉え、わずかな色で見事に表現したのです。
身の周りにある物を描く熊谷守一の絵は、鮮やかで簡潔です。塗り絵のようにも見えます。しかし、守一の絵を見つめていると、よく知っている物でも、初めて見るような驚きを得られます。そして、その色、その形にしか思えなくなってくるのです。
http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/data/100130/
熊谷守一 ウィキペディアWikipedia)より
熊谷守一は、岐阜県恵那郡付知(現・中津川市付知町)出身の画家。日本の美術史においてフォービズムの画家と位置づけられている。しかし作風は徐々にシンプルになり、晩年は抽象絵画に接近した。「二科展」に出品を続け、「画壇の仙人」と呼ばれた。
【作風】
写実画から出発し、表現主義的な画風を挟み、やがて洋画の世界で「熊谷様式」ともいわれる独特な様式-極端なまでに単純化された形、それらを囲む輪郭線、平面的な画面の構成をもった抽象度の高い具象画スタイル-を確立した。轢死体を目にしたことをきっかけに、人の死や重い題材も扱った。生活苦の中で5人の子をもうけたが、赤貧から3人の子を失った。4歳で死んだ息子・陽(よう)の死に顔を描いたもの(「陽の死んだ日」大原美術館蔵)、戦後すぐに20歳を過ぎて結核を患って死んだ長女・萬(まん)が自宅の布団の上で息絶えた姿を荒々しい筆遣いで描いたもの、野辺の送りの帰りを描いた作品(「ヤキバノカエリ」岐阜県美術館蔵)、仏壇に当時は高価であったタマゴをお供えした様子(「仏前」個人蔵)なども絵に残している。子煩悩で大変に子供をかわいがった。
自然や裸婦、身近な小動物や花など生命のあるものを描いた画家で、洋画だけでなく日本画も好んで描き、書・墨絵も多数残した。墨の濃淡を楽しみながら自由に描かれた墨絵、生命あるものを絵でなく「書」で表現したとも評された書、また、頼まれれば皿に絵付けなどもした。摺師との仕事を楽しんで制作した木版画も残されている。
97年の生涯のうち、晩年の30年間は全く外出せず、わずか15坪の庭の自宅で小さな虫や花を描き続けた。面と線だけで構成された「赤蟻」(1971年)など、その独特な画風は現在高い評価を得ている。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
熊谷守一(くまがいもりかず) (1880 - 1977) 97歳で死亡。 (一部抜粋しています)
洋画家熊谷守一は、昭和41年文化勲章授与の内示があったとき「わたしゃお国から勲章をもらうようなことは何もしていない」と答えてことわった。
昭和49年、94歳のとき、「アサヒグラフ」で語る。
「足が悪いから1日座っているけれども、石ころひとつでも遊べる。長生きすることはいいことだと思うけど、結局、なんにもしないできた見本みたいなもんじゃないですか」
95歳を迎える昭和50年の「文藝春秋」1月号で彼はこんなことを語っている。
「このごろは、朝早くから目が覚めて、床の中で雨戸の隙間がだんだん明るくなってくるのを待っています。目が覚めただけでも息が切れる感じです。枕元の懐中時計の捻子(ねじ)はあたしが巻くんですが、これも巻こうと思うと息が切れる。(中略)このごろは大分目方が減って、手なんか見ると、これまでは縦だけだった皺(しわ)が横にもついてね、年とった体になったなと思いました。風呂にはいると、骨は大きいのに皺がよってるから、丁度テレビで見たインドの栄養失調の子供みたいです。あれはひどいですね。 こうして正月を迎えてみると、生きていたいと思いますね。わたしってしみったれですから幾つになっても命は惜しいです。命が惜しくなかったら見事だけれど、残念だが惜しい。長く生きていたいです。どういうわけですかね。生きていたってたいしたこと無いでしょう。ここに坐ってこうしているだけですから」
昭和52年6月ごろから老衰のため寝たきりになり、床の中で述懐した。「毎日毎日病気のことしか考えられないなんて、こんな馬鹿なことがあるか」
そのとき47歳の娘榧(かや)は、父と「モリ」「カヤ」と呼び合う友人同士のような仲であったが、最後の10日間、酸素吸入器と点滴を受けて昏睡している父を看病しながら、その最後の姿を刻々スケッチブックに描きつづけた。
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最後には肺炎をひき起こしていたが、自然死にちかい往生であった。

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熊谷守一 Google 検索
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