じじぃの「人の死にざま_1099_A・タピエス」

アントニ・タピエス - あのひと検索 SPYSEE
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Antoni Tapies 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=iw2dhHrRBNg
Antoni Tapies 動画 YouTube
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アントニ・タピエスの抽象画 画像
http://www.artkaitori.com/collection/contemporary-f/antoni_tapies/img/01.jpg
三重県立美術館/出品目録 大原美術館所蔵品展−20世紀・世界の美術−図録
http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-museum/catalogue/ohara_20/list.htm
アントニ・タピエス ウィキペディアWikipedia)より
アントニ・タピエス(Antoni Tapies、1923年12月23日 - 2012年2月6日)はスペインの現代芸術家。スペイン・バルセロナ生まれ。20世紀の現代美術の巨匠の一人と言われている。
1950年に初めての個展をバルセロナで開催、以後パリに居を移す。タピエスは、初期の頃はパウル・クレーなどに影響を受けたシュルレアリスムの画家としてキャリアを始めたが、その後すぐ抽象表現主義に進み、美術用画材ではないものを利用した芸術である「アルテ・ポーヴェラ(Arte Povera)」スタイルで創作活動を行う。1953年にはミックス・メディアでの創作を開始、後にこれが彼の芸術への最大の貢献と評価される。このスタイルの一つの例は、粘土と大理石粉を絵具に混ぜ、廃紙、糸、絨毯などを使用している(灰色と緑の絵(Grey and Green Painting・1957年)、ロンドン・テート・ギャラリー収蔵)。
国際的な評価は1950年末までに定着し、1960年代初期まではエンリケ・タバラ、アントニオ・サウラ、マノロ・ミラレスや他のスペイン人アンフォルメル派の芸術家と作業した。1970年代にはポップ・アートの影響を受け、家具の破片などのもっと大きな物体を絵画にくわえるようになってきた。タピエスのアイデアは世界中の芸術、特に絵画、彫刻、版画の分野などに大きな影響を及ぼした。世界中の様々な美術館に彼の作品が収蔵されている。

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『絵のまよい道』 安野光雅/著 朝日新聞社 1998年発行
大原美術館 (一部抜粋しています)
青年になりたての、まだ16、7歳の頃のこと、倉敷に大原美術館というところがあることを知り、親に内緒で出かけたことがある。
そこは、わたしにとってはじめて覗く絵の神殿だった。なにしろ美術館の中は外にくらべて空気が違う。その違いは、空気を科学的に分析して比べればわかるはずだ、と思うくらい違う。そこは神々が集まって密かに酒盛りしている場所で、人間は近寄ることのできぬ所だといってよかった。その頃はほかに入っている人が少なく(わたし一人だったような気がする)、不気味なほど静かだった。今もあると思うが、入口にあったロダンの「カレーの市民」が風雨の中にあって不動のままでいることの、あたりまえかもしれぬ不思議さ、あるいはゴッホの糸杉の中に立っている位置にゴッホが立ったことがある」と思い、やや感傷的に身のふるえるような思いをしたこと、オットマンの絵の女性の前での、あやしい胸騒ぎは、その絵が生き生きしているという意味ではなく、きっとあの頃、ものごころついたのだな、と今は思う。
その後、世界の大きい美術館をたくさん見てきたけれど、いまも大原美術館ほどすばらしい感銘を受けたものはなかったと、わたしは思っている。
セガンチーニを知ったのもそこだし、マチスの絵も覚えている。あれから何十年もたつのにみんな憶えている。いつか、もう一度言って、若き日の記憶を確かめたいと思っている。
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あの美術館は、そもそも当時倉敷紡績の社長だった大原孫三郎の親友として、その信頼と後援を受けてきた児島虎次郎(1881〜1929)が、大原孫三郎の芸術に対する「誠意と夢」を形あるものとして実現させた(1930)ところの、奇跡の殿堂なのである。
洋画に触れる機会のきわめて少なかった当時、西欧の芸術・文化に、印刷や、書物を通じてでなく、直接会いたいと思う人、中でも洋画を心す人に、あの殿堂は刺激を与えずにはいかなかった。そのことが創立者の大原、児島の願いでもあったという。わたしも、その刺激の中に育った一人ということになる。
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そこの学芸員の米山朱美の話では、大原美術館の作品を幼稚園のこどもに、積極的に見てもらっているという。なんといい試みなんだろう。名画はこどもにわからない、と決めるのは柔軟性を失った大人の考えることなのだ。こどもに対しては「美術館にある作品は無条件に優れているもの」と決めつけないで、自分の目で見て「好きか、きらいか、どうしてそうなのか、どんなところに何を感じるのか」など、自由に言いたいことを言わせ、十分に聞く。そのためには「一番嫌いな絵はどれですか」というような、導入の仕方をしてみるが、これはとてもいい方法らしく、おしつけでなく、絵のよしあすはともかく、自分の目でものを見る手がかりにはなりそうだという。
裸体画には、やはり反応があるが、その皮膚の色彩の不具合には関心がなく、形つまりデフォルメのおもしろさに注意が向かうという。ついで、年長組の子には好きな絵の模写をさせる。公立の美術館ではなかなかできないことだと思う。できあがったものは幼稚園に持って帰って飾っておく。たとえば、M子ちゃんの描いた「マチスの娘」などができあがる。大人の眼には似ても似つかぬ模写だが、その絵を見た年少組の子が大きくなって、模写をするために美術館にくる時がくるが、そのとき、「マチスの娘」の前で、こどもたちが、「あ、M子ちゃんの絵だ」と叫ぶことがあるそうである。
教えられているのは、むしろわたしです、と米山朱美は言う。
うれしいことにタピエスの作品「グレーの上の弧形」が一点ある。
グレーと言っても、キャンバスの上に砂と絵の具を混ぜたものを盛り上げて塗り固め、画面の上の方に弧を描くように砂絵の具を削りとったかと思うと、その弧に沿って、たてに何本かの線の跡をつけたもの。こう言ってしまうと単純だが、その盛り上げた砂色の地肌は、赤く錆びた鉄板のように貫禄がある。
米山朱美がアメリカに留学していた頃、そこの美術学生に、このタピエスの絵を見せると「日本人は魚を食べるから、その魚の骨を描いたんでしょ」などという。「ちがう、カタロニア人のタピエスという人の作品よ」と言うと、一時不思議がるが、抽象作品をしたりげに書き尺すたりはせず、「あっけらかんと自分の意見が言えるのが、アメリカ人のいいところかもしれない」と言った。

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