じじぃの「人の死にざま_1113_藤島・武二」

藤島武二 - あのひと検索 SPYSEE
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藤島武二 & ラヴェル ピアノ協奏曲 動画 YouTube
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藤島武二 東洋振り 画像
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藤島武二 芳恵 画像
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藤島武二 黒扇

藤島武二 ウィキペディアWikipedia)より
藤島武二(ふじしまたけじ、1867年10月15日(慶応3年9月18日) - 1943年(昭和18年)3月19日)は明治末から昭和期にかけて活躍した洋画家である。明治から昭和前半まで、日本の洋画壇において長らく指導的役割を果たしてきた重要な画家である。ロマン主義的な作風の作品を多く残している。
【略歴】
鹿児島市薩摩藩士の家に生まれた。
黒田が主宰する白馬会にも参加。白馬会展には1896年(明治29年)の第1回展から出品を続け、1911年(明治44年)の白馬会解散後も文展や帝展の重鎮として活躍した。
1901年(明治34年)2月ごろから6年間担当した与謝野鉄幹・晶子が刊行した雑誌「明星」や、晶子の歌集『みだれ髪』の表紙では流行のアール・ヌーヴォーを取り入れている。ほかにも装丁本がある。

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美の巨人たち 藤島武二「黒扇」 2014年3月8日 テレビ東京
【ナレーター】小木薫
今日の一枚は、日本近代洋画の礎を築きあげた藤島武二の「黒扇」。
重要文化財に指定されています。薄明かりの中にたたずむ異国の女性は長い純白のベールに包まれ、その手には真っ黒な扇。潤んだ藍色の瞳に透き通るような肌、形の良い唇はわずかに微笑んでいます。夢かうつつか知れないまろやかな世界へと誘うように黒扇を開き、芳しい香りを漂わせています。見る者はこの眼差しから目を逸らせず戸惑うばかりです。細やかな筆遣いでしっとりと描く武二の他の絵とは極めて異質の今日の一枚。一気に描かれたような素早い線と、まるで塗り残しのような荒々しい画面です。一体なぜ…?
http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/backnumber/140308/index.html
『語る現在、語られる過去 - 日本の美術史学100年』 東京国立文化財研究所 平凡社 1999年発行
日本近代洋画におけるオリエンタリズム (一部抜粋しています)
日本の内地の作家に、内地のみならず外地をも視野に入れた作品の制作を促したように見受けられる。大正末から昭和戦前期に描かれた、中国、韓国などに取材した絵画については、こうした視点からの解釈が可能ではないだろうか。これまでの日本近代美術史を振り返ってみると、作家論・作品論において作家の言説を重視し、それに素直にそって画歴ないし作品を解釈しようとする傾向が強く、また、19世紀以降の西洋美術全体の流れとして、作品の自律性を重視する動きがあったところから、日本近代美術についても、造形的な要素を最重要視して語るのが主流であった。しかし、作品は造形的な要素のみならず、多様なものを含んで存在している。新たな視点の設定により、これまでとは違った作品解釈がなしうる。
その一例として、日本近代洋画史上、重要な作家とされる藤島武二梅原龍三郎が戦前の一時期に集中して描いた、「東洋」を意識した絵画について、従来とは異なる解釈を試みてみたい。
藤島武二明治38年(1905)、38歳でフランス、イタリアへ留学し、同43年に帰国して以降、留学の成果を日本の洋画壇においていかに生かすかに苦悩していた。しかし、大正13年(1924)、「東洋振り」を描いて以降、代表作「芳恵」など、中国服の女性像を題材に優品を発表し続ける。この展開の契機となったのが大正13年春、「朝鮮美術展」の審査員として韓国に渡ったことであったのではないかと、すでに陰里鉄郎氏が指摘されている。
従来、「東洋振り」、「芳恵」、「譩剪眉」など一連の先品は、陰里氏が、昭和64年(1989)に東京都庭園美術館ほかで行われた「藤島武二展図録によせた「藤島武二について――日本の油彩画の形成」という文中で、画業の初期から女性の横顔を好んで描いた「藤島自身の好尚と東洋の画家としての彼の鋭敏な感性とが、ルネサンスの画家たちの作品に共感を生み、さらにそれに誘発された成果がこの横顔となって画期的な出発となったのであろう」と述べられているように、日本の油彩画家にとって常に大きな課題であった「日本の油彩画」の創出への意識と、西欧留学の成果とが融合したものと位置づけられてきた。

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