じじぃの「人の死にざま_955_浅井・忠(洋画家)」

浅井忠 - あのひと検索 SPYSEE
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浅井忠 画像
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/33/Asai_chu.jpg/220px-Asai_chu.jpg
大津絵皿 画像
http://www.chiba-muse.or.jp/ART/asai_sp/asai5/asotsue1.jpg
浅井忠/春畝 画像
http://www.digiart.cc/goods_image/A5660_I1.jpg
浅井忠と京都 1900年〜1907年 京都で遊ぼうART
http://www.kyotodeasobo.com/art/exhibitions/asai-chu-1900-1907/
芸艸堂 店主の日記 日曜美術館「近代デザインの開拓者 浅井忠」に芸艸堂が紹介されます。
http://unsodo.blog95.fc2.com/blog-entry-101.html
日曜美術館 「近代デザインの開拓者 浅井忠」 2012年7月8日 NHK Eテレ
【司会】千住明森田美由紀 【出演】クリストフ・マルケ(日仏会館・美術史研究者)
黒田清輝とともに日本近代洋画の父と称される画家、浅井忠(1856 - 1907)。田園風景を情感豊かに描いた“風景画の巨匠”として数々の名作を世に残した。しかし、晩年、日本の近代デザインの開拓者になったことはあまり知られていない。
明治35年、46歳の時、浅井は、突如、将来を嘱望されていた東京美術学校を辞し、京都に移住。グラフィックデザイン、工芸デザインという未曽有の方向へ大きくかじを切る。彼のデザインは100点以上にものぼる。
浅井が取り組んだのは「和とモダンの融合」。西欧から持ち帰ったアール・ヌーボー様式と、琳派に代表される和の装飾美を独自の形で融合させた斬新なデザインは、第一線で活躍する現代のデザイナーたちをも刺激し続けている。
彼はまた京都の工芸家たちと組んで研究団体を設立し、若い才能を育てるとともに、京都工芸界全体を改革する活動を展開。単にデザイナーとしてだけでなく、プロデューサーとしても活躍した。
まだデザインという分野に重きを置かれていなかった明治時代。浅井は、デザインを通して何を目指そうとしたのか?最新の研究成果を元に、デザイナーとして生きた浅井の知られざる才能に迫る。
●収蔵作品展 「浅井忠・フォンタネージとバルビゾン派
千葉県立美術館 9月8日〜9月30日
http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2012/0708/index.html
浅井忠 ウィキペディアWikipedia)より
浅井忠は、明治期の洋画家。教育者としても貢献した。
江戸の佐倉藩中屋敷藩士・浅井常明の長男として生まれる。少年時代は現在の佐倉市将門町で1863年から1872年までを過ごし佐倉藩の藩校・成徳書院(現在の千葉県立佐倉高等学校の前身。父・常明は、この成徳書院の校長をしていたこともある)で四書五経などの儒教や武芸を学ぶかたわら、13歳の頃から佐倉藩の南画家・黒沼槐山に花鳥画を学び、「槐庭」(かいてい)の号を与えられ、この頃から才能の一端を現した。
1873年(明治6年)に上京。はじめは英語の塾で学んでいたが、1875年(明治8年)に彰技堂で国沢新九郎の指導のもと油絵を学び、1876年(明治9年)に工部美術学校に入学、西洋画を学び特にアントニオ・フォンタネージの薫陶を受けた。卒業後は、新聞画家としての中国派遣などを経て、1889年には浅井が中心になって明治美術会を設立した。1898年(明治31年)に東京美術学校(現在の東京芸術大学)の教授となる。その後、1900年(明治33年)からフランスへ西洋画のために留学した。
1902年(明治35年)に帰国後、京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)教授となり、個人的にも聖護院洋画研究所(後の関西美術院)を開いて、後進の育成にも努力した。画家としてだけではなく教育者としても優れた人物であった。
また、正岡子規にも西洋画を教えており、夏目漱石の小説「三四郎」の中に登場する深見画伯のモデルとも言われる。

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『すぐわかる画家別近代日本絵画の見かた』 尾崎正明/監修 東京美術 2003年発行
情緒あふれるリアリズムによる日本風土の発見――浅井忠(あさいちゅう、1856 - 1907) (一部抜粋しています)
浅井忠は、世代的には高橋由一黒田清輝にはさまれて、明治中期の日本洋画に大きな貢献をした画家である。由一のようにゼロからの出発というのでもなく、また黒田にように留学という恵まれた環境によって基礎技術を学んだのでもない。
浅井の場合は、工部美術学校でのイタリア人フォンタネージから受けた教育が、すべての基礎であった。たとえていえば、フォンタネージは浅井にとって西洋世界を覗く窓であり、そこから見えるものを懸命に吸収しようとしたのである。そして浅井がそこで学んだことは、文字通り”窓”という概念だった。つまり、窓から見る風景は、リアルな写真のフレームのように、一つの世界を切りとる。絵画もこのようにフレームによって切りとられ、再構成される秩序をもった世界であると。
ごくふつうの意味でいえば、写真はリアリズムそのものだ。しかし、浅井が彼の絵の世界でめざしたリアリズムは、だからといって写真のように描けばよいというものではなかった。彼が描いた日本の農村風景やフランスでの水彩風景をみれば、それが見る者に安心感を抱かせる情感あるリアリズムであるということがわかるだろう。

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浅井忠 京都 Google 検索
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