津崎矩子 ウィキペディア(Wikipedia)より
津崎 矩子(つざき のりこ、天明6年(1786年) - 明治6年(1873年)8月23日)は、幕末の近衛家の老女、勤王家。女中名は最初田鶴、須賀野、後に村岡局と称した。位階は贈従四位。父は大覚寺門跡家臣津崎左京、兄は大覚寺門跡諸大夫の津崎元矩。
寛政10年(1798年)より近衛家に仕えて、中臈を経て老女となり、村岡局を名乗った。
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『日本史の中の女性逸話事典. 歴史を彩った女性たち』 中江克己/著 東京堂出版 2000年発行
村岡局――勤王運動に奔走した老女 (一部抜粋しています)
幕末の勤皇歌人として知られる村岡局(むらおかのつぼね)は、本名を津崎矩子といい、天命6年(1786)、京都北嵯峨(京都市右京区)で生まれた。大覚寺門跡諸大夫の津崎元矩(もとのり)は兄にあたる。
彼女は13歳で近衛家に仕え、のちに老女(侍女の長)となり、村岡局と名のった。近衛家当主忠煕(ただひろ)の信任が厚く、安政3年(1856)、島津敬子(すみこ)が忠煕の養女として13代将軍家定に嫁ぐとき、これに同行している。
安政5年、家定は病死し、敬子は剃髪して天璋院(てんしょういん)となった。村岡局は京都へ戻ったが、この年、幕府が勅許をえずにアメリカとの修好通商条約に調印したことから、尊攘派との対立がいちじるしくなっていた。
村岡局の願いは、朝廷の威信を回復したいということだった。このため、主の忠煕をはじめ、朝廷と勤皇志士たちの連絡役をつとめたり、志士たちへの援助を惜しまなかった。
さらに村岡局は、なんとか尊王運動が有利にすすむようにと、勅諚(ちょくじょう)降下のために奔走する。それが功を奏したのか、安政5年(1858)8月8日には、孝明天皇の勅諚が水戸藩に伝えられたが、その内容は日米修好通商条約調印を批判し、国内あげての攘夷対策に取り組むよう要請したものだった。
しかし、幕府内部には、水戸藩が朝廷と結んで叛逆を企てているのではないか、との疑念が生じたのである。
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幕府はよほど大きな衝撃を受けたのだろう。勅諚事件にかかわった者たちへの捜査と逮捕に乗り出したのである。これが引き金となって、安政の大獄がはじまった。
村岡局は西郷隆盛と勤皇僧の月照(げっしょう)の京都脱出を助けたが、村岡局自身も疑われ、安政5年12月、京都町奉行に捕えられてしまった。村岡局はすでに73歳になっていた。翌安政6年2月、江戸へ唐丸籠(とうまるかご)で送られたが、彼女はその途中、
「嬉しさをなにに譬えむするがなる 富士の高嶺を近くに見つれば」
と詠んだ。江戸の評定所ではきびしい糾問がつづいたが、村岡局はそれに屈せず、おのれの大義をつらぬき、主家を守った。村岡局は押込め30日の刑を終えると、京へ戻った。
その後、嵯峨の山荘「直指庵(じきしあん)」に退隠し、維新後は賞典禄20石を給された。死亡したのは明治6年(1873)、88歳だった。