じじぃの「人の死にざま_630_安井・曾」

安井曾太郎 - あのひと検索 SPYSEE
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梅原龍三郎安井曾太郎  近藤晃史(京都市文化財マネージャー) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=ONp55e6Z0ss
安井曾太郎_金蓉 画像
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安井曾太郎 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
安井曾太郎は、大正〜昭和期の洋画家。
【生涯】
1888年明治21年)、京都中京区で木綿問屋を営む商家の五男として生まれる。
1907年(明治40年)4月、先輩画家の津田青楓が渡欧すると聞いた安井は、津田とともに渡欧することを決意した。安井は、渡欧に際し、それ以前の作を焼き捨てたとのことで、彼の初期作品はほとんど現存していない。フランスではアカデミー・ジュリアンに学んだ。また、7年ほどのフランス滞在の間にイギリス、イタリア、スペインなどへも旅行している。1914年(大正3年)、第一次世界大戦が勃発しドイツがフランスに宣戦布告したことに加え、安井自身の健康も悪化していたため、日本へ帰国した。翌1915年(大正4年)には第2回二科展に滞欧作44点を出品し、二科会会員にも推挙される。その後10年ほどの間は安井の画業の低迷期で、健康が回復しなかったことに加え、フランスと日本の風土の違いにも苦しみ、独自の画風を模索しつつある時期であった。
1930年(昭和5年)の『婦人像』あたりから安井独自の日本的油彩画の様式が確立し、梅原龍三郎とともに第二次世界大戦前後を通じて昭和期を代表する洋画家と評されている。1935年(昭和10年)には帝国美術院会員となる。もともと文展に対抗して組織され、在野の立場を貫く二科会の方針から、安井は同会を離れざるをえなかった。翌1936年(昭和11年)、石井柏亭、有島生馬、山下新太郎らと一水会を結成。安井は生涯、同会の委員を務めた。戦後の『文藝春秋』の表紙画を担当していた。
1944年(昭和19年)には東京美術学校教授となり、1952年(昭和27年)には文化勲章を受章している。
1955年(昭和30年)、肺炎のため死去。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
安井曾太郎(やすいそうたろう) (1888-1955) 67歳で死亡。 (一部抜粋しています)
昭和30年11月半ばから、洋画家安井曾太郎は、美術家連盟の年末助け合い展覧会に出品する仕事にとりかかった。それは湯河原の自宅のアトリエから庭に出て、湯河原町のほうを見た風景画で、彼は庭にゴザをしき、画架を立ててその仕事に没頭したが、そのために風邪をひいて、2月3日にはついに床についた。
安井はもともと肺も弱く心臓も弱い蒲柳(ほりゅう)の質であった。
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そして9日に、せめて1時間でもといって画架に向かい、とうとう夕方まで仕事をつづけてしまった。その筆をおいたとき、彼はもう立ちあがる元気もない状態にあった。「まだ書き足りないけど、これ以上どうしようもない」と、彼はいった。それは「秋の山」と題する彼の最後の作品となった。
10日からまた彼は床につき、肺炎と診断された。呼吸困難で、横になっても仰向けになっても、身の置きどころもないほど苦しんだ。
そして12月14日午後5時20分。彼は息をひきとった。

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