じじぃの「人の死にざま_974_薩摩・治郎八」

薩摩治郎八 - あのひと検索 SPYSEE
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パリ国際大学都市 日本館 画像
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薩摩治郎八と巴里の日本人画家たちの詳細 - 展覧会詳細情報 徳島県立近代美術館
http://www.art.tokushima-ec.ed.jp/srch/srch_art_detail.php?pno=4&no=268
1878年 第3回パリ万博
http://www.ndl.go.jp/exposition/s1/1878.html
読書日記 ● 『わが半生の夢』 薩摩次郎八 (1)
http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-560.html
薩摩治郎八 ウィキペディアWikipedia)より
薩摩治郎八は、日本の実業家、作家で大富豪として知られた。その華麗で洒落た浪費ぶり(フランスにて、10年間で約600億円使ったという)から、「バロン薩摩」と呼ばれた。
【文化貢献】
当時モンパルナスを拠点に活動を行っていた画家の藤田嗣治、高崎剛、高野三三男など当時パリで活躍していた日本人芸術家を支援したほか、美術や音楽、演劇などの文化後援に惜しみなく私財を投じた。
また当時、フランス政府が各国に提唱して留学生の宿泊研修施設を、パリ14区のモンスーリ公園に隣接したパリ国際大学都市に建設するように呼び掛けたものの、日本の外務省は「資金不足」を理由にこれに対して出資しなかったため、元老として知られた西園寺公望公爵の要請を受けた薩摩が全額出資し、1929年(昭和4年)5月に「日本館」を建設した。これらの活動が評価されてのちにフランス政府からレジオンドヌール勲章が与えられた。なお「日本館」は、薩摩の名をとって「薩摩館」とも呼ばれる。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
薩摩治郎八(さつまじろはち) (1901-1976) 75歳で死亡。 (一部抜粋しています)
大正8年、18歳で渡欧した薩摩治郎八は。オクスフォードを卒業後パリに赴き、祖父が綿花と貿易で一代にして築いた巨富を湯水のごとく使って、実際は爵位はないのに「バロン・サツマ」と呼ばれ、パリ社交界の花形となる一方。昭和4年、当時の金で2億円を投じて日本館を建設し、また藤田嗣治藤原義江、原智恵子、渡辺一夫らパリに滞在したに日本の芸術家文化人のパトロンとなった。
しかし、昭和26年、無一文となって、50歳の治郎八は帰国した。
元伯爵令嬢で、純銀のロールスロイスに、淡い紫と銀色のドレスを着せてシャンゼリゼ―を走らせた夫人はすでに結核で亡くなっていたが、帰国後彼は浅草の踊り子秋月ひとみ(本名利子)と恋をした。彼女は彼より30も年下であった。
昭和31年から二人は6帖のアパートで暮らしたが、昭和34年、彼女の故郷徳島市阿波踊りを見物にいったとき、彼は突然脳溢血で倒れた。以後利子はミシンを踏んで治郎八を養ったが、昭和51年2月22日、利子から牛乳を飲ませてもらって、しずかに彼は瞑目した。
彼はふだんからいっていた。「祖父が一人で作った金を、孫が一人でなくしただけのことで、別にどうってことはない」

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薩摩治郎八 
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