じじぃの「人の死にざま_649_長谷川・一夫」

長谷川一夫 - あのひと検索 SPYSEE
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ベルサイユのばら 宝塚版 長谷川一夫インタビュー 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=nmamECiUOp8
長谷川一夫 ウィキペディアWikipedia) より
長谷川 一夫は、京都府京都市伏見区出身の俳優。戦前から戦後の長きにわたって映画・舞台・テレビで活躍した大スター。日本における二枚目の代名詞として知られた。林長丸、林長二郎は旧芸名。長谷川 一夫は本名である。
俳優の林成年は長男、女優の長谷川季子長谷川稀世は長女・次女、また稀世の娘に女優の長谷川かずきがいる。
【人物・来歴】
京都伏見の芝居小屋の子として生まれる。幼少時より子役として舞台に立ち、初代中村鴈治郎の長男・林長三郎の一座に加わり、林長丸の名で人気を博する。
1927年、松竹に入社。芸名を林長二郎と改め『稚児の剣法』で映画デビューする。抜群の美貌に加え、若手時代劇スターを渇望していた松竹が社をあげて宣伝したことが功を奏し、林はたちまち日本を代表するスターとなる。当時若い女性の間でこの『稚児の剣法』は大人気となった。
1937年に東宝に移る約束をすると、松竹が雇った暴力団員に顔を切りつけられ、再起不能といわれたが、芸名を本名の長谷川一夫に戻し、山本嘉次郎監督の『藤十郎の恋』で入江たか子と共演、見事に復活する。『鶴八鶴次郎』など山田五十鈴との「黄金コンビ」でもヒットを飛ばす。その後、李香蘭と共演した『白蘭の歌』『支那の夜』など現代劇にも主演しヒットを続けた。
戦後は東宝、新東宝を経て1950年、大映に重役として迎えられ、時代劇で主演作品を作り続けた。衣笠貞之助監督の『地獄門』でカンヌ国際映画祭グランプリを受け、海外でも評価を高めた。1963年に映画界を引退するまで大映のトップスターであり続けた。時代劇では1951年から始まった『銭形平次 捕物控』シリーズが10年間で17本の作品を公開する大当たりとなった。主演映画は301本。これは他に類を見ない数字である。
一方、舞台では1955年から東京宝塚劇場大阪新歌舞伎座、名古屋御園座中日劇場東宝歌舞伎に立ち、華やかなレヴュー「春夏秋冬」で人気を得た。
テレビにも高額の出演料で迎えられた。さらに1964年には大河ドラマ赤穂浪士』に大石内蔵助役で主演、これが生涯の当たり役のひとつとなった。
一時期、赤坂で料亭賀寿老(かずお)を繁夫人と経営していた。酒が体質的に飲めず、大の甘党であったこともあり、晩年は糖尿病などの慢性病に悩まされた。1984年2月に繁夫人と死別すると本人も急速に衰え、後を追うように同年4月6日に頭蓋内膿瘍のため死去、76歳だった。死後まもなく、国民栄誉賞を贈られた。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
長谷川一夫(はせがわかずお) (1908-1984) 76歳で死亡。 (一部抜粋しています)
昭和2年、19歳のとき林長二郎という芸名で松竹映画『稚児(ちご)の剣法』で売り出してから、『雪之丞変化』その他で、水もしたたるその美男ぶりでたちまち全女性の渇仰(かつごう)のまととなり、昭和12年東宝に移籍したとき、松竹の意向を受けた韓国人のやくざに顔を切られるという事件以来、本名の長谷川一夫と改めてからも、彼は半永久的に天下の2枚目の盛名を落とさなかった。
映画は昭和38年、55歳のときの『江戸無情』で終ったが、それ以前昭和30年からの「東宝歌舞伎」はながく東宝のドル箱となった。
が、昭和58年の正月の東宝歌舞伎『半七捕物帳』に出演したときは、さすがに老醜のかげ覆いがたく、長谷川一夫はひけどきを誤ったという声が出て、彼はショックを受けた。
長谷川一夫はその十数年前から心臓をわずらい、ときに引退を考えないわけでもなかったが、「東宝歌舞伎」は彼だけの双肩にかかり、彼一人で切符1万枚をさばくという状態で、容易にやめるわけにはゆかなかったのだ。だが、その年の秋から持病となっていた糖尿病、心臓病、痔などの治療のために入院し、昭和59年の恒例の正月公演ははじめて休演するに至った。
そこに2月17日、繁(しげ)夫人が肺ガンで死亡した。かって新橋の名妓であった彼女は、2度目の妻ながら、40年ちかく、世間的には彼の蔭にかくれ、しかも彼を後顧のうれいなく背後から支え、「役者の妻のかがみ」といわれた。妻が死んだとき長谷川はまだ退院後の静養中であったが、みなのとめるのをふり切って、29日の葬式の陣頭指揮をとった。
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3日後の、3月22日の繁の納骨式には、長谷川はこのような内部の葛藤をだれにもうかがわせず、異常によく雪のふったその春の寒風の墓地に立ちつくして、納骨式をすませた。
これが彼の命とりとなった。彼は風邪をひき、25日から高熱を発し、慈恵会医大病院に再入院したが、30日腎盂炎(じんうえん)を発し、翌朝脳血栓を起こして意識がなくなり、さらに頭蓋内腫瘍となり、頭蓋骨切開手術が行われたが、珍しくまだ花の咲かない遅春の4月6日午後11時20分、ついに息をひきとった。手術のため最後は坊主頭であった。
息子の林成年はいう。「世間がこしらえた2枚目ではなく、自分のものをつくるには、父は"若死した"と思っているかも知れません」またいう。「父は人生も芝居も、幕切れを大切にしていました」
芝居はともかく、人生の幕切れのほうは、彼の願い通りにいったというべきであろう。とはいえ、長谷川一夫は、昭和全期を通じてみれば最大の人気俳優――ただし女性ファンばかりだが――であったといえる。70半ばまで、大劇場の舞台を一人でもたせたなどという役者は彼だけだろう。

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