じじぃの「断定したくない言葉・とか・かな・みたい?曲り角の日本語」

若者言葉と女房言葉(ドラマ『日本人の知らない日本語』) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=IMhmpTXqRw8
曖昧な日本語(ドラマ『日本人の知らない日本語』) 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=MHkeJ8vCBR0&feature=related
若者言葉 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
若者言葉は、主として20代前後(10代後半〜30代前半)の青少年が日常的に用いる俗語・スラングなどで、それ以外の世代ではあまり用いない言葉のことである。若者言葉には最近になって使われ始めたものと、古くからあって代々若者に受け継がれるもの(例:体育会系に多い「っす」など)があるので、共時的だけでなく通時的に見る必要がある。
【形容詞・感動詞
●ウザい・うぜえ・うざったい(てえ)
 「鬱陶しい」の意味を表す。
 本来は、多摩地域周辺で使われている多摩方言の、不快・(生理的に)気持ち悪い・(草木などが多い茂っていて)鬱陶しいなどという意味の「うざったい」が短縮されたり、言葉の意味が広がった形である。2000年頃から浸透している。古くは「うざっかしい」「うざっこい」という形容詞や、「うざつく」という動詞があった。
 類義語として関西を中心に使われる「うっとい」があるが、これは「鬱陶しい」の変形である。
●〜入ってる
 あるものや人に似ている、それに近いという意味で「〜の要素が入ってる」と表現したものを略した言葉。また他の語とともに用いて様々な状態を表す。「ブルー入ってる」というと「憂鬱な気分だ」の意。また格闘ゲーム等でも「パターンに入った」等と使用する。これは、特定の状態に陥ったままの状態を指す。
●やばい・ヤバい・ヤベえ やばす まじやばす!
 「良くない」「非常にまずい状態に陥っている」の意。近年では意味が拡大しており、「予想に反して驚き、衝撃を受けてしまった」という際にも使用されるようになってきている。さらには、「衝撃を受けるほどすばらしい」と言う意味でも使われる。マスコミで採り上げられる例としては、「ラーメン店などで頼んだものを口にした途端、『やばい、これほど美味しいとは思っていなかった』」。要は予想外のことを体験してしまい、その衝撃でどうにかなってしまいそうなほど凄い、といった意味である。ヤバす("やばいです"の省略)というのもあり、これは2ちゃんねるを始めとしたネットスラングから。タレントの中川翔子が自身のブログでもよく利用している。
 起源は「矢場」(江戸時代に的屋が営んでいた射的遊技の的場を指す関東方言)とされる。表向きは遊技場だが、実際には売春の場所だったので「矢場」が危険な場所を表す隠語となり、さらに危険な状況を表す形容詞として「矢場い」が生まれたという。
 『隠語輯覧(1915年)』によれば、泥棒が刑事のことを「やば」と呼んだ。それの形容詞形が「やばい」である。
●ざけんな(よ)
 「ふざけるな」が縮まってできた語。
●やりぃ、っしゃ、ヤッピー
 歓喜の「やった」の意。「っしゃ」は「よっしゃ」の転である。「やっぴー」はのりピー語から。
●ピンクい、みどりい
 「ピンク色だ」「緑色だ」という言葉を言いやすく強引に形容詞終止形の「〜い」に変換させて用いる。
●二(に)けつ
 自転車の2人乗り。(成年者が幼児を乗せるので無ければ、道路交通法違反)
【ぼかし表現】
●とか
 例:「うどんとかを食べたい」("うどんを食べたい"をぼかした表現)
【てよだわ言葉の流行の終焉】
 明治時代以降女性の間で流行していた「よろしくってよ」「そうなのよ」「そうだわ」といった「てよだわ言葉」は、1980年代以降廃れ始め、現代の若者の間では使われなくなりつつある。現在の若者世代では男女を問わず「〜だよ」「だね」「〜かな」、これに加えて「〜じゃん」「〜(で)さぁ」「〜なんだよね」のようなユニセックスな言葉遣いが主流になった。

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『曲り角の日本語』 水谷静夫/著 岩波新書 2011年発行 (一部抜粋しています)
前説
雷と共にピカピカ光る現象を普通に「稲妻」と書くことは(文部省も認めたし)、有夫の女性を「人妻」と書くのと変わらない。だが現代仮名遣いによれば、後者がヒト+ツマに立って「ひとづま」なのに、前者は有無を言わさず「いなずま」なのだ。ところが音訓表の「妻」字には「ずま」の訓を与えていない。これは「胸元」が「むなもと」なのに音訓表の「胸」字にわざわざ「むな」のよみを挙げなかったのと、軌を一する。それなら稲妻を表わす仮名遣いも、歴史的仮名遣いのまま、「いなづま」であるべきでなかったか。パラレルな成り立ちのこの2語において現代仮名遣いがなぜ揃わないかは(理由とした事柄の推測はできるが)公式には不明だ。こうした仮名遣いの決め方は、「はは」の年老いたのが「ばば」なのとパラレルに「ちち」の年老いたのが「ぢぢ」であるべきに、(現代語音に基づいた)現代仮名遣いでは「じじ」だ。これは語彙に存する組織的関係の破壊だ。国語審議会委員諸公の思慮不足?
辞典になぜ改訂が必要か
不用意の辞書の釈義の部分にもないとは言えません。例えば、ここに挙げるのは野球の用法に関してですが、「打つ」という動詞の意味に、辞書によっては「カーブを打つ」「直球を打つ」とかのたぐいと、「ホームランを打つ」のたぐい、それから「3割を打つ」というたぐいを別義のように扱っているものがあります。これは私に言わせれば全く間違いです。「ボールを打つ」というのは、「太鼓を打つ」などと同じです。まりそのものを打つわけです。それに対して、「ホームランを打つ」とか「3割を打つ」というたぐいは他の動詞にいくらでもあります。例を挙げてみますと、「湯を沸かす」「家を建てる」「詩を書く」など。「湯を沸かす」は屁理屈で言うと、熱くなっている湯をどうしてもう1回沸かすのだとか、それから、「家を建てる」というのも、横になっている家を起こすのじゃあるまいしとか、「詩を書く」といっても、誰かが1回作った詩を、もう1回書くわけではないしとか、文句が出そうですね。
誠に困るのが、少々横文字を知っている連中が、だから日本語は非論理的だち極め付けることです。「湯を沸かす」は確かに、英語ならウォーターwaterを沸かします。しかしウォーター=水なのでしょうか。湯のことも彼らはウォーターと言っています。つまり、日本語の湯・水の区別は、彼らは特別の必要がない限りしないでウォーター。必要な時だけboiled waterとかhot waterとかと言うにとどまります。
それから、いかに英国国民でも「家を建てる」のは大工に限っていますが。自分が注文して作らせても、「おれはこの間家を建てた」という言い方をします。「昨日、注射した(had injection)」人は、英語でも、主語は医者に限りません。こういうところはつまらない屁理屈で考えてはいけないのです。周りのいろいろな言葉の組合わせを考えなければ足りません。
元に戻ります「打つ」の場合は、「打つ」の意味は同じだとしても、「を」の用法の違いとして説明できます。「打つ」自体の意味の違いによるのではなくて、むしろ「を」との組合わせから生じる違いだ、と。もし違いを言うならば、手打ちにする、人を切るという「打つ」とボールを打つ場合とでは、区別しなければいけないでしょう。
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それから、暮らし自体、昔の暮らしとはだいぶ変わってきた。そのために、昔の暮らしで常識的だったことが、もはや常識ではないことが増えてきました。だから、何か非常に変な言い方をしている若い人たちがいても、その人たちが別にぐれているわけでもなければ、素行不良でもない。知識が足りないだけだというようなことが往々にしてあるわけです。
1つの例が「やばい」です。あれはヤクザ犯罪者の間の隠語でした。それがこのごろおいしいものを出されて予想外においしかった時にも、若い女の子もでいきなり「やべえ」などと言い出します。あれは絶対に私は受け入れられない。いくら文化が変わったと言っても、ヤクザ社会の隠語を由来も知らず平気で多用するのはいいことだとは思えません。つまり、もののけじめがはっきり立たなくなった、だからまじめな事とふざけている事との違いが分からなくなってくる。これはただ、言葉の上だけではありません。あちこちに影響してきますから、そう簡単に見過ごしていい問題だと私には思えません。
日本語未来図
ある程度言い切っていいところに言い切りを使わない、という傾向としては、「とか」と同じように「かな」があります。例えば、次のは最近テレビで耳にした、臓器移植コーディネーターの言葉です。
「私たちがご遺族にずっと寄り添っていてどれだけの事ができたかは分かりませんが、少しでもお役に立てたらいいかなと思います」 (テレビ番組中)
なるほど、今やそういう仕事も必要だろうと思いますが、いいかなと思う程度にしか人命にかかわる仕事はしないのでしょうか。
この言い方は非常に多く使われています。全くの私的な文脈でないのに「かな」と言うのは、割合に新しいことです。以前ならここは「嬉しいと思います」、少し整えて言えば「嬉しゅうございます」とするところです。かりに内心を打ち明ける表現を取っても「いいかな」ではなく「いいなあ」だったはず。自分にかかわることなのに「か」を挟む態度に、私はどうしても馴染めません。
国会答弁でも同じ言い方をしていました。大臣が「この政策を強力に推し進めて景気が好転したらいいu>かなと思います」と答弁するのもそう。あるいは、ある組織の会計責任者がどうしてそういう不正支出を見逃したのかという質問に対して、証人にたった本人が「請求書と書類が整っていて、帳尻も合っているから、いいかなと思いました」。ガキじゃあるまいし、「いいかなと思いました」ということはないでしょう。昔だったら、「か(な」など挟まず、「それでいい(または、よろしい)と思いました」です。
次に挙げるのは、ケータイ小説と呼ばれるものから引いた例です。
「ねえ、キスしょッ」「何よ、あたしそれって無理かも
「おれ腹減ってるみたい
気の短い私は、「おめえら、自分自身の感じすらも分からねえのかよ」って言いたくなる。しかし、こういう言い方が普通になってきます。何でもおぼめかして。それで霞んでしまう。これはもう私のような年寄がとやかく言っても直らない気がいたします。それにしてもこの種の言い方、もう少し自分が責任を取る形にしてもらえないものでしょうか。

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どうでもいい、じじぃの日記。
先日、図書館のなかで本巡りをしていたら新書コーナーに、水谷静夫著『曲り角の日本語』という本があった。
『曲り角の日本語』か。そういえば、「そうっスね」「マジで」「マジっすか?」「ヤベえ」とか連発している若いのがいたな。
ぱらぱら、本をめくってみたら
「ばば」とか出てきた。
「はは」の年老いたのが「ばば」なら、「ちち」の年老いたのが「ぢぢ」であるべきだ。確かに「じじばば」は「ぢぢばば」であってもおかしくない。
「全然いい」はOKか? 「全然」という打ち消し言葉に「いい」の肯定言葉が混じっている。この言葉はもう世間に認知されている。
「やばい」と言う言葉もよく聞く。
この間、テレビの料理番組で、ナベから料理された具を取り出し口に入れ、顔を歪めながら、「やばい!」と叫んでいた。超旨いことを「やばい!」と叫ぶのだそうだ。
「おれ腹減ってるみたい
気の短い私は、「おめえら、自分自身の感じすらも分からねえのかよ」って言いたくなる。
100年後の日本語はどうなっているんだろうか。