じじぃの「人の死にざま_1068_新村・出(言語学者)」

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新村出 ウィキペディアWikipedia)より
新村出(しんむらいずる)は、日本の言語学者、文献学者。京都大学教授・名誉教授で、ソシュール言語学の受容やキリシタン語の資料研究などを行った日本人の草分けである。
【人物・略歴】
山口県に旧幕臣で当時山口県令を務めていた関口隆吉の次男として生まれる。「出」という名は父親が山口県山形県の県令であったことから「山」という字を重ねて命名された。
終生京都に在住し、辞書編纂に専念し、戦後に発刊された『広辞苑』の編纂・著者(息子の新村猛が共同作業に当たった、初版1955年)として知られる。新仮名遣いには反対し、当初予定の『廣辭苑』が『広辞苑』に変更になったとき、一晩泣き明かしたという。そのため「広辞苑」の前文は、新仮名遣いでも旧仮名遣いでも同じになるように書いた。また形容動詞を認めないため、「広辞苑」には形容動詞の概念がない。
その業績は『新村出全集』(全15巻、筑摩書房)にまとめられている。また南蛮交易研究や吉利支丹文学(キリシタン版関連)は、『吉利支丹文学集』(全2巻)と『南蛮更紗』が、平凡社東洋文庫で再刊されている。
1956年(昭和31年)文化勲章受章。1967年(昭和42年)没時に、賜銀杯一組。優れた日本語研究に対し、毎年授与される「新村出賞」がある。
広辞苑 ウィキペディアWikipedia)より
広辞苑』(こうじえん)は、岩波書店が発行している中型の国語辞典。
【沿革】
広辞苑』の出発点となる素案は、大正末期から昭和初年にかけ、民族・民俗学や考古学の名著を多数世に送り出した岡書院店主の岡茂雄による。1930年(昭和5年)末、不況下の出版業が取るべき方策を盟友岩波茂雄に相談の折、「教科書とか、辞書とか、講座物に力を注ぐべし」との助言を得て、中・高生から家庭向き国語辞典刊行を思い立ち、旧知の新村出に依頼したのが発端となる。当初、新村は興味がないと断るも、岡の重ねての依頼にしぶしぶ引き受ける。その際、新村の教え子の溝江八男太に助力を請い、その溝江の進言により百科的内容の事典を目指すこととなる。書名は、岡が新村のために企画した、長野県松本市での「国語講習会」での懇談の席上、新村考案の数案の中から決められた。「辞苑」とは、東晋の葛洪の『字苑』にちなんだもの。
戦後、疎開先から帰京した岡茂雄が『辞苑』改訂版刊行の意思を博文館に尋ねるが、社長以下博文館側は拒絶、その旨は新村出にも報告された。その後、新村猛の交渉により、改訂版は岩波書店から刊行されることとなる。その際、博文館との軋轢を懸念した岡茂雄は、書名の『辞苑』の引継ぎに異を唱えたが、結局書名は『広辞苑』と決まる。その後岡の予想通り、岩波書店と博文館の間で裁判沙汰が起こることとなった。

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文藝春秋 創刊90周年記念号
激動の90年、歴史を動かした90人 「新村出 『広辞苑』の家庭」 【執筆者】新村恭(孫) (一部抜粋しています)
日本の言語学国語学の基礎を築き、『広辞苑』の編者としても知られる新村出(1876 - 1967)には11人の孫がいました。昭和22年生まれの私は最年少ですから、晩年の祖父しか見ていません、父は出の二男で、『広辞苑』の編纂に二人三脚で携わったフランス文学者の新村猛です。両親と兄、二人の姉と一緒に、京都にある祖父の家に同居していました。私が三歳のときに父の仕事の都合で名古屋に引っ越しましたが、折りにふれて京都の家に遊びに行っていました。
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祖父は「広辞苑の新村先生」としてお堅いイメージがあるかもしれません。しかし実際の祖父は、孫を愛する好々爺でした。家を訪れた孫の言動について詳しく綴った「愛孫日記」をつけていたほどです。そこには孫からの手紙や絵も丁寧に貼りつけてありました。毎年10月の祖父の誕生日には、家族全員が京都に集ったものです。小さいころは、孫たちが背の順に並んで目の前で歌ったり踊ったり劇をしたりしていました。そうやって祖父を笑わせることを楽しみにしていたのです。
祖父はいつも悠然としていて、散歩をしながら自然を見ることが好きでした。草花や星などにも詳しく、専門家はだしの説明をしてくれたこともあります。
また、昭和28年に「雁」という映画を観て以来、女優の高峰秀子さんの大ファンになりました。そのころナショナル(現・パナソニック)の専属モデルだった高峰さんの等身大の看板やポスターを近所の電器店のご主人が持ってきてくれていたので、新村家の今はどっちを向いてもデコちゃんだらけ(笑)。谷崎潤一郎さんが高峰さんに祖父のことを伝えてくださり、お二人で京都の家にいらっしゃったことがあります。昭和42年に祖父は亡くなりましたが、葬儀には高峰さんも参列してくださいました。
祖父の死後、全集を編纂することになり、私も遺稿の整理を手伝いました。最も苦労したのは、著作の分類です。祖父は生前よく「学問の底辺は広ければ広いほどよろしい。山はそれだけ堅固に、頂上は高くなる」と言っていました。
その言葉のとおり、祖父の著作は、言語、書誌、史伝、随筆など。どの分類に入れてもおかしくない内容を持っていたのです。
遺稿の整理をしていく過程で、祖父のユーモラスな一面も発見できました。例えば「笑窪考」と書かれたノートです。えくぼの語源を調べているのですが、週刊誌か何かから切り抜いたんでしょう。女優の乙羽信子さんの写真が貼ってあり、「百万ドルのえくぼ」と書いてありました(笑)。
お得意の語源語史を使ったダジャレも好きで「もともとはポルトガル語からきたいいやすいことばのシャボンが、近来、漢字の石鹸に置きかえられ、これに席巻されていくことは残念である」とか「ひばりの語源はこのように諸説あるが、私は最初の説にへばりつきたい」と書いているんですね。
全集は出版されていますが、祖父の人生を誕生から死まで追った伝記はまだありません。私の子供たちに、『広辞苑』だけに留まらない祖父の仕事や人柄を伝えるためにも、いつか伝記をつくりたいと思っています。

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