じじぃの「科学・芸術_104_台湾人の日本精神」

【驚異の親日の理由】日本人大好き台湾の謎 日台友好 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=YJ88WCgzI1Q
海角七号/君想う、国境の南(字幕版) 動画 YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=jk8iE0AB2gE
蔡英文総統が英語と日本語でツイート 内外に波紋 2017年1月29日 毎日新聞
台湾の蔡英文総統が27日、春節旧正月)に合わせて新年のあいさつをツイッターに英語と日本語で投稿したところ、日本語での投稿に中国から批判が殺到する騒ぎに発展した。
台湾メディアによると、総統府は「ツイッターのユーザーの3分の1程度が日本語を使っている。総統はユーザーに旧正月のお祝いを述べた」と説明した。
http://mainichi.jp/articles/20170129/k00/00e/030/107000c
『私は、なぜ日本国民となったのか』 金美齢/著 WAC 2010年発行
台湾人の「日本精神」 (一部抜粋しています)
1946年(昭和21年)春、台北第一女子高級中学の生徒だった時、ある日、私は上級生の先輩に誘われて隣の建国中学(旧台北一中)の生徒たちの集まりに参加した。それは送別会だった。元一中の生徒が中国国民党による強制的な中学教育や中国人としてのアイデンティティを押しつけられることに耐えかねて、基隆港から漁船に乗り込んで”憧れの日本”への密航を企てているという。送る側も、送られる側も、何の疑いもなく、日本は祖国で、希望の地だと信じていた。
その生徒の企てはあえなく失敗に終わり、彼はのちに台湾大学に学んで、卒業後は公務員の道を選んだ。もし当時の台湾の若者に国籍選択の自由があったら、日本の代わりにやってきた蒋介石中華民国の国民になることを大多数が拒絶し、日本国民なることを望んだだろう。
そうした感覚は権力の強制からは生まれてこない。日本が台湾で行ったことは、それまでの欧米の植民地経営とは明らかに異なるものだった。
何よりも台湾人は、日本が統治時代に持ち込んだ精神的価値観、倫理観に共鳴し、それを自らのアイデンティティに深く酌(く)み入れた。
台湾語で語られる「リップンチェンシン」、つまり、「日本精神」には、「清潔」「公正」「勤勉」「責任感」「正直」「規律遵守」など多様な意味が含まれ、全人格的な価値観として台湾人自身が使い始めた言葉である。
司馬遼太郎の『台湾紀行』に出てくる“老台北”蔡焜燦(さいこんさん)は、台湾人と中国人の決定的な違いについてこういっている。
「『公』という観念の有無だ、と思う。日本の教育は、台湾人に他の近代国家と伍して恥じない最高水準の道徳を身につけさせてくれた。日本統治時代の道徳教育こそが、台湾人と中国人を精神的に分離させたのである。日本統治時代、『公』という観念は徹底的に教え込まれた。それは秩序ある法治社会を築き上げるためには必要不可欠だった」
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2008年8月、台湾で封切られた『海角七号』という映画がある。
低予算で作られた映画だというが、近年低迷を続けていた台湾映画界では、『タイタニック』につぐ史上2番目の興行成績をあげる例外的な大ヒットとなった。
この映画のヒットの背景の1つには、台湾人の日本統治時代へのノスタルジーがあったと言える。当時を知る人たちが映画館に足を運び、かつて別れなければならなかった「日本」を思い出し、涙したのである。
また、台湾の若者にとっても、こんな歴史が祖父母の時代にあったのだ、ということを知らされ、感動した映画だった。だから、多くの若者が、2度、3度と映画館に足を運んだという。
この映画は、2人の友子という女性の物語である。戦後、離れ離れにならなければならなかった日本人教師と教え子の台湾人女性・小島友子(日本名)の恋、そして分断されなければならなかった日本と台湾、この2つの関係を織り交ぜながら、その60余年後の現代に生きる台湾人青年と日本人女性・友子の恋愛を描く。
敗戦後、台湾から引き揚げる日本人教師が、小島友子への手紙を船上でしたためながら呟く。
「(君を)捨てたのではない。置いていくしかなかったのだ」と。
日本人としての自覚をもっていた当時の台湾人で、敗戦後、日本から「放棄」という形で捨てられたと思っている人は多い。いまでも、こうした思いを抱いている、ある年代の台湾人はたくさんいる。
サンフランシスコ講和条約で台湾を放棄した日本は、中国と国交を回復した1972年(昭和47)にも、「台湾は中国の一部」と中国が主張していることを認めてしまった。日本は2度、台湾を「捨てた」ことになる。
台湾の多くの若者がこの映画を見て、「素晴らしかった、感動した」という。この思いは、果たしていまの日本人に届くのだろうか。