じじぃの「人の死にざま_1148_小林・一三」

小林一三 - あのひと検索 SPYSEE
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名言・格言の活かし方〜小林 一三〜 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=d84m5_r3kiE
小林一三記念館 第8回特別展「小林一三と百貨店−世界初のターミナルデパート開業−」
http://www.hankyu-bunka.or.jp/sys/info/article/17
林先生の痛快! 「生きざま大辞典」 2014年1月2日 TBS
【MC】林修 【ゲスト】青木さやか菊地亜美北村晴男城田優中田敦彦
逆境に立ったときこそ、人間の真価が問われる! 数々の苦難を乗り越えてこそ、真の成功が得られる!
この番組では、人生のピンチを乗り切り成功を収めた先人たちや、大きな苦難&逆境を「倍返し」してきた人物の生きざまなど、近現代の偉人たちの生き方を実例をもとに紹介。
人生のヒントになるような生き方、ターニングポイントなどを解説していく。
小林一三 ・・・3度の左遷&転職失敗で、どん底に落ちた銀行員
林修が賢く生きるための最強のヒントを解説。銀行員にとって辛い左遷、10年以上くすぶり続ける男がいた。男は後に阪急グループを創設し大臣に就任する。その男は「小林一三」。
小林は3度の左遷のあと転職に3度失敗する。34歳で窓際となって新会社設立も中止となった。
露頭に迷った小林一三は鉄道を利用してもらうために、当時珍しかった屋内プールを作るも人気が出なかった。そこで小林は、プールで宝塚歌劇団を始めた。鉄道を盛り上げるために阪急百貨店を創設、功績が認められて阪急電鉄の社長になり、大臣に就任した。
イデアマンと見られる小林一三だが、林修はアイデアマンは徹底した調査を行う人のことではないかと話し、学びたいことは「何がピンチで何がチャンスか分からない」だと語った。
http://www.tbs.co.jp/program/ikizamadaijiten_20140102.html
小林一三 ウィキペディアWikipedia)より
小林一三は日本の実業家。阪急電鉄宝塚歌劇団をはじめとする阪急東宝グループ(現・阪急阪神東宝グループ)の創業者。
鉄道を起点とした都市開発、流通事業を一体的に進め相乗効果を上げる私鉄経営モデルの原型を独自に作り上げた。山梨県出身。第2次近衛内閣の商工大臣、1941年(昭和16年)から貴族院勅選議員、幣原内閣で国務大臣、初代戦災復興院総裁を歴任したが、戦後公職追放となった。号は逸翁、別号に靄渓学人、靄渓山人。旧邸雅俗山荘は逸翁美術館
【来歴・人物】
山梨県巨摩郡河原部村(北巨摩郡韮崎町を経て、現在の韮崎市)の商家に生まれた。
1920年大正9年)には日本ではじめてのターミナル・デパートを設ける計画をすすめる。路線の起点となる梅田駅にビルを建設し、1階に東京から白木屋を誘致し開店、2階に阪急直営食堂を入れた。次いで「阪急マーケット」と称した日用品販売店を2・3階に入れ、1929年(昭和4年)3月にはついに「阪急百貨店」という直営百貨店を新ターミナルビルの竣工に合わせて開店させた。鉄道会社が直営で百貨店を経営するなどといった事例は海外にも無く、その前途に疑問を持つものも少なくなかったが、小林は「素人だからこそ玄人では気づかない商機がわかる」、「便利な場所なら、暖簾が無くとも乗客は集まるはず」などと言って事業を推し進め、世界恐慌のさなか多くの客を集めることに成功する。さらに、客のことを考えた事業姿勢があったといわれ、阪急百貨店における「ソーライス」の逸話などが、現在にも伝わっている。なお、阪急百貨店は1947年に分離独立し直営ではなくなったが、以後も文化的なつながりを保ち、ブランドとも言える「阪急」のイメージを確立し続けている。
この百貨店事業の成功は、1929年(昭和4年)に六甲山ホテルの、建設・開業といったホテル事業など派生事業の拡充、1932年(昭和7年)の東京宝塚劇場、1937年(昭和12年)の東宝映画の設立(1943年に両者は合併し、現在の「東宝」となった。)といった興業・娯楽事業、1938年(昭和13年)の第一ホテル(東京・新橋)の開設と更なる弾みを付ける契機となり、阪急東宝グループの規模は年々拡大の一途を辿った。
ここであまり知られていないが、小林は東急の始祖である田園都市株式会社の経営にも関与していた。1918年(大正7年)に渋沢栄一らが創設し、田園調布を開発した事でも名高い田園都市株式会社の経営を小林は、名前を出さず、報酬も受け取らす、日曜日のみ、という約束で引き受け、玉川、調布方面の宅地開発と鉄道事業を進めたという。つまり東急は、五島慶太に経営を引き継いだ後、小林の手法を用い東急東横線沿線に娯楽施設やデパートを作ったのである。

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『人間臨終図巻 下巻』 山田風太郎著 徳間書店
小林一三(こばやしいちぞう) (1873 - 1957) 84歳で死亡。 (一部抜粋しています)
「阪急デパート」「宝塚歌劇」「東宝映画」などを創始してそのことごとくに成功し、「今太閣」などと呼ばれた小林一三は、先輩の松永安左衛門から「不関心の人」という評を与えられた。
2人とも慶応の出身だが、福沢諭吉のはじめて「時事新報」がのちに危機に陥ったとき、門下の財界人が救援運動にのり出し、松永もその一役をおしつけられ、かつ小林にも援助を求めた。それに対して、「福沢先生の仕事でも、つぶれるときはつぶれる。僕はごめんこうむる」と一蹴したような小林の一面を皮肉った人物評である。
小林一三が、自分が生まれた年に死んだ母を恋いながら、一生、大阪池田の広壮な「雅俗山荘」に仏壇を作らず、妻のコウがやむを得ず薬師寺管長橋本凝胤に請うて厨子(ずし)入りの観音像を求めると、一三はそれを食堂のテーブルにのせて短期間干渉し、あとは廊下の袋戸棚の中へ放りこんでしまったのも、彼が宗教に対しても「我不閑焉(われかんせずえん)」の人であったことを示す神話である。
しかしその小林一三も、昭和31年83歳のとき、長男の東宝社長冨佐男が悪性腫瘍で倒れると、みながとめるのを押して上京し、見舞った。そのときから一三は変わったと橋本凝胤はいう。
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このころ建設中の梅田コマ・スタジアムの支配人伊藤邦輔が小林邸を訪れて、庭のブランコに一三が乗ってゆられながら、ひとり泣いているのを見ている。
彼自身心臓が悪く、小林家を訪れた客たちは、コウ夫人から、一三を笑わせないように注意された。笑うと心臓に異常を起すから、というのであった。
結局しかし一三は、宗教に深入りすることはなかったらしい。
梅田コマは11月、新宿コマは12月に開場した。しかし彼の創案になるこの円形劇場は、3分の1を切って完全円を避けたにもかかわらず、役者もやりづらく、一般の評判もかんばしくなかった。大阪と東京の間を往復する一三の顔色は、心臓を病んでいるせいもあって白蝋のようであった。
しかし、ある日の終演後、証明の調子をみるために無人のステージにのぼり、全照明を浴びているこの白蝋の老人を眺めて、伊藤支配人は心中に、「ここに演劇の神様がいる」とさけんだ。
昭和32年1月25日夜、一三はいつものように廊下の食堂でコウ夫人と食事をとった。夫人は風邪気味で一三より早く午後7時ごろ床にういた。彼は食堂でテレビの大相撲のニュースを見ていたが、午後9時ごろ寝室にはいる前、コウ夫人に、「気分はどうだ、大丈夫かい」と声をかけ、『若乃花は強いな。……お休み」といって、用便後寝室はいり、それからまもなく胸をおさえて苦しみはじめた。
そして11時45分、遺言もなく息をひきとった。心臓喘息の発作を起したのであった。
1月31日、宝塚大劇場で行われた「音楽葬」のため、大阪じゅうのタクシーはことごとく宝塚に集まってしまったといわれる。

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