じじぃの「ゴッホとテオの物語!街道をゆく・オランダ紀行」

Van Gogh 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=O5tKG39G6Qk
Vincent van Gogh 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=S0nJCnvbsug
NHKスペシャル 街道をゆく 第2シリーズ 第1回 オランダ紀行
江戸時代、鎖国という情報統制の中で、長崎出島オランダ商館から伝えられた西洋文明。作家・司馬遼太郎は、「暗箱のような日本に射(さ)し込んでいた唯一の外光」だと記しています。その光源である17世紀オランダの姿と国の成り立ち、そして、日本との関係を探るべく、平成元年(1989)、司馬はオランダに渡りました。第一回は日本に多大な影響を与えたオランダの歴史と文化に迫ります。
https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2011031647SA000/
フィンセント・ファン・ゴッホ ウィキペディアWikipedia)より
フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh、1853年3月30日 - 1890年7月29日)は、オランダ出身でポスト印象派後期印象派)の画家。主要作品の多くは1886年以降のフランス居住時代、特にアルル時代(1888年 - 1889年5月)とサン=レミの精神病院での療養時代(1889年5月 - 1890年5月)に制作された。
彼の作品は感情の率直な表現、大胆な色使いで知られ、ポスト印象派の代表的画家である。フォーヴィスムドイツ表現主義など、20世紀の美術にも大きな影響を及ぼした。
【概要】
ゴッホは、1853年、オランダ南部のズンデルトで牧師の家に生まれた。1869年、画商グーピル商会に勤め始め、ハーグ、ロンドン、パリで働くが、1876年、商会を解雇され、その後イギリスで教師として働いたりオランダのドルトレヒトの書店で働いたりした。
1886年2月、テオを頼ってパリに移り、印象派や新印象派の影響を受けた明るい色調の絵を描くようになった。この時期の作品としてはタンギー爺さんなどが知られる。日本の浮世絵にも関心を持ち、収集や模写を行っている。
約10年の間に、油絵約860点、水彩画約150点、素描約1030点、版画約10点を残し、手紙に描き込んだスケッチ約130点も合わせると、2100以上の絵を残した。有名な作品の多くは最後の2年間に制作された油絵である。その中には、自画像、風景画、花の静物画、肖像画、糸杉・小麦畑・ひまわりなどの絵がある。また、弟テオらと交わした多くの手紙は、書簡集として出版されており、彼の生活や考え方を知ることができる。
生前に売れた絵はたった1枚「赤い葡萄畑」だったと言われているが、晩年には彼を高く評価する評論が現れていた。彼の死後、回顧展の開催、書簡集や伝記の出版などを通じて急速に知名度が上がるにつれ、市場での作品の評価も急騰した。彼の生涯は多くの伝記や「炎の人ゴッホ」に代表される小説・映画などで描かれ、「情熱的な画家」、「狂気の天才」といった幻想的イメージをもって語られるようになった。

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街道をゆく (35) オランダ紀行』 司馬遼太郎/著 朝日文庫 2009年発行
愛と理解 (一部抜粋しています)
テオ(Theo)は、感動的である。
もしこの弟がいなければ、画家フィンセント・ファン・ゴッホは存在しなかったろうということは、すでにふれた。
テオという名は、正しくはTheodoorで、かれらの父だったのが、画家より4年遅れてうまれたこの弟にあたえられた。
アメリカ人名事典』(G・R・スチュアート著、木村康男訳、北星堂刊)によると、この名は「1850年頃、やや”ブーム”の感があった」という。テオは1857年うまれだから、アメリカ合衆国第26代大統領ローズベルト(オランダ系)のセオドール(Theodore)と同様、流行のさなかにつけられたことになる。
ティルさんにこの名前の意味をきくと、ギリシャ語が語源で、”神(テオス)からの授かりもの(gift of god)”ということだそうである。
テオはその名のとおり、兄に対し、ひたすら与えつづける人だった。
ティルさんは、ギリシャ語・ラテン語にもよく通じている。
彼女は、ゴッホの名であるフィンセント(Vincent)についても調べてくれて、ラテン語のVincere:勝つ)からきているという。
テオは与え、ゴッホは戦い、窮死するようにして短い生涯をおえたあと、その名のとおりの人になった。
私どもは、かれら兄弟が幼いころを送ったブラバント地方を走っている。
兄弟の父は、牧師としてブラバント地方の村々を転々とした。
ブラバントにおけるフィンセント・ファン・ゴッホについての研究」(1926年『書簡全集』所収)
という文章がある。
ベンノ・J・ストックフィスという人が、ゴッホの死後、30余年後のこの地方を歩き、村びとたちの記憶を採集して書いた文章である。
無名の青年だったゴッホが躍如としている。よくいわれているように、服装がきたなかった。
 製作に出かけるときは、たいてい一種のレインコートと防水帽といういでたちだった。だいたい服装は粗野だった。毎日、片方の腕に床几を、もう一方の腕に四角な枠をかかえて、いつも自分の目の前を見つめたまま、ひとびとにはほとんど目もくれないで歩いてゆくかれの姿が見えたものだった。
見ただけで、変人だったのである。
「頑丈な体格をもっていた」
という村びとの記憶は、重要だといっていい。
かれの兄弟は――テオがとくにそうだったが――体が弱かった。しかし画家ゴッホだけが、母親に似たのか、頑丈な体にめぐまれていた。ただし、精神のほうがその肉体に見合わないほどに重すぎたのである。
そのうえ、かれは、栄養をとることに、罪悪のようなものを感じていた。イエスとのあいだの一体感、質素であれというプロテスタンティズム、さらには貧しいブラバントの炭坑夫や農民たちへの思い入れ、などとあわせて考えていい。
 何もつけないパンを食べるのはかれにとっては毎度のことだった。(ヨハンナ「思い出」)
かれの数すくない友人のひとりで、画家でもあったケルセマーケルスがそう語っている。この習慣は、かれが自分自身を甘やかさないという理由からついたものだという。のち、過労のため医師から「全身衰弱」という診断をうけるにいたるのも、1つには平素の栄養状態がよくなかったからにちがいない。
ファン・ラッパルトは、オランダではめずらしく貴族で、裕福でもあり、陽気で平衡のとれた性格をもっていた。もっとも、脳脊髄膜炎というくるしみはもっていたが、ゴッホが死んだあと、この若い画家は、ニューネンにいるゴッホの母親に手紙を書いた。
 この力戦苦闘するいたましい人物を目にしたものは誰でも、自分自身にあまりにも多くを要求してそれがために身も心も滅したこの人に対する同情を感ぜざるを得ませんでした。かれは大芸術家の種族に属していました。(同書)
ゴッホの魂が、みじかいことばで的確に書かれている。ただし、ファン・ラッパルトでさえ、当初、ゴッホの絵がわからなかった。かれはそのことについて、別な場所で正直に書いている。
 わたしにはかれの仕事を正しく見抜くことができなかった。それはわたくしがそれまで絵というものについて抱いていた観念からはまるでかけ離れたものであった。あまりにも、粗野で、乱雑で、あまりにも荒っぽくて、未完成だったので、……。(同書)
どうもゴッホは、人物のデッサンをおろそかにしているように思えてならず、ついゴッホその人に対して口に出して言ってみた。それに対してゴッホは怒らず、議論せず、
 かれは全然相手にならないで、笑っただけだった。そして言った、「いずれあなたも違った考え方をするようになるでしょう。」
この情景に、ゴッホの自信がうかがえる。さらにはゴッホが死後の評価まで射程に入れてゆるぎがなかったことまで想像できるのである。
ゴッホの死後、弟のテオが母親に出した手紙は、いつ読んでも心が洗われるようなおもいがする。
ゴッホは、小麦畠で、自分自身を撃ち、そのあとしばらく生きたが、テオの腕のなかで、はるかな眠りについた。テオは、母親に、「かれは小麦畠のなかの陽の当る場所で休息しています」と書いた。テオは兄が休息しているのだと思いたかった。それほどはげしく生きたことを、テオだけが知っていたのである。
 ぼくがどんなに悲しんでいるか書くこともできません。また、いかなる慰めも見出すことはできません。この哀しみは長く続くでしょう。ぼくは生きている限りこの悲しみをけっして忘れないでしょう。ただ1つ言えることは、かれが自分の望んでいた終息を見出したということです。しかし、いまとなって、よくあることですが、だれもがかれの才能をさかんに賞めたてています。……ああ、お母さん、かれはあんなにぼくの、ぼく自身の兄さんだったのです。
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ニューネンの牧師館にもどってきたのが1883年の暮れで、その翌月――1884年1月――母親が事故をおこし、大腿骨を折った。
ゴッホの精神のなかに眠っていた献身という美徳が、不意に起きあがったのは、このときだった。かれは懸命に、倦(う)むことなく、身を休めもせずに母を看病したのである。
かれは母から愛されていないと思いこんでいたし、母が自分に打ち解けようとしてくれず、理解もしてくれないとおもっていた。げんにかれはニューネンを去る時、お母さんは僕をながいあいだかまってくれなかった、という捨てぜりふをのこした。
恨みと献身が、紙の表裏のように1つになっていることについては、心理学の好主題であるにちがいない。
もっとも、私はこの現象をフロイト的に理解しようとはおもわず、ゴッホにおける病的なほどのキリスト教的倫理感情の面も見るべきではないかとおもっている。全身を他者に投与し、おのれを捨てて献身の対象(この場合、母親)と合一しようとする感情が、ゴッホのみじかい生涯でこのときだけかなえられたのではないか。
ゴッホは女性を欲した。
女性一般を崇拝もし、その愛の配分を自分も得たいとねがっていた。
 女は神々が造り給うた最上のもの(書簡第451信)
と、弟テオへの手紙のなかで、書いている。
かれの自作の詩なのである。ただし、この詩の前半は、女性一般への悪口で、「すべての悪は女からうまれる」とか、女について「もうろうとした理性」とか、「金銭欲」「裏切り」と呪いのような言葉をつづけたあげく、しかしながら、「女を称(たた)えよ、神々が女を造り給うたゆえに」という。最後に、前掲のことばで結んでいるのである。
これほど女性を渇仰しながらも、この人は女性から無視されつづけた。
かれはみじかい生涯で数度も熱烈な恋をし、つねにみじめな片想いでおわった。母親にさえうとまれ、妹たちからも理解されず、妹の1人などはテオに対して、あんな人と縁を切りなさい、とはげしく忠告する手紙を書いたりした。
テオさえうんざりすることがあった。
ゴッホはニューネン時代、骨折した母親に対し、あのように献身しながら、一方においてよほど鬱懐していたのか、
「なぜ、君はこの私に妻子をくれないのか」
と、テオに対し、どなりつけるような調子で、手紙を書き送っているのである。あたかも弟たる者は兄に妻子をあたえることが義務であるかのようにゴッホはいう。しかもテオがそれを怠っているかのように責めたてた。
テオにすれば、たまったものではなかったろう。
パリにいるテオは、テオ時代、すでにゴッホに金を送りつづけているのである。が、ゴッホは、
「妻子がなくて、金がなんだ」
と、むちゃなことをいう。本気である。
後年、テオの妻になるヨハンナが、テオに次いでゴッホの魂を発見したひとであることは、すでにふれた。
彼女は、夫テオの引出しに詰まっている兄ゴッホのぼう大な手紙を読んだことから、この義兄は尋常の尺度でははかるべきではないとおもい、さらには結婚してわずか1年半ほどで夫をうしなったあとは、ながい余生をテオとゴッホの往復書簡や、ゴッホが他の人に書いた書簡などの整理のためにささげた。そのことも、すでにふれた。
そのヨハンナが、「思い出」のなかで、上述の手紙にふれている。あきれかえりつつも、ゴッホへの愛が感じられる。
 そのころ(註・ニューネン時代)のフィンセント自信の手紙は陰うつで、不平に満ちている。そして不当にもテオを非難して、お前はぼくの作品を一度だって売ってくれたためしがない、やってみようとさえしなかったのだとなじり、最後には痛烈な叫びをあげる。「妻をきみはぼくに与えることはできない。子供も与えることはできない。仕事も与えることはできない。金は――できる。だが、ぼくが妻も子供も仕事もなしにやってゆかねばならぬとしたら、金が何の役に立つか」
 さすがのテオも怒ったが、しかしとげとげしい返事を書いたりせず、軽い皮肉を飛ばす程度でとどめた。
ヨハンナの場合。この手紙を最初に読んだときは仰天したろうが、ただ彼女の場合、聡明さと教養があったために衝撃をやわらげることができた。また彼女はすでにゴッホの他の書簡によってその魂の全体像をつかんでいたから、いわば愛と理解という額縁(タブロー)のなかでこの異様な内容の手紙を読むことができたかとおもえる。
ゴッホは死後、義妹によってはじめて、かれを容れてくれる女性をえたのである。

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どうでもいい、じじいの日記。
司馬遼太郎著 『街道をゆく (35) オランダ紀行』という本に、ゴッホのことが書かれている。
ゴッホという人物にはずっと興味を持っていた。特に印象的なのが、描いた絵が生涯で1枚しか売れなかったことだ。
人に認められもせず、よく絵を描き続けたものだと思う。
「これほど女性を渇仰しながらも、この人は女性から無視されつづけた。」
「かれはみじかい生涯で数度も熱烈な恋をし、つねにみじめな片想いでおわった。母親にさえうとまれ、妹たちからも理解されず、妹の1人などはテオに対して、あんな人と縁を切りなさい、とはげしく忠告する手紙を書いたりした。」
とても、人ごとだとは思えない。
ゴッホは37歳で自殺した。
それでも、ゴッホには、やさしくしてくれる弟がいた。少し救われる思いだ。