じじぃの「人の死にざま_1048_秦・豊吉」

秦豊吉 - あのひと検索 SPYSEE
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馬込文学マラソン/日本初のストリップショー(秦豊吉
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アートアクセス版 粋人粋筆探訪 文・坂崎重盛
その人の名は「丸木砂土」。本名は秦豊吉。1917年から26年の10年ほどベルリンで生活の後、帰国後、昭和初期からの艶笑文芸ライターとして名を馳せた丸木砂土の名を知る人でも、秦豊吉の名を知らぬ人は多いだろうし、戦後の昭和15年東京宝塚劇場(わかりやすくいえば「東宝」)の社長となり、戦後の昭和25年帝国劇場社長、日本劇場(日劇)社長、そして東宝社長となった秦豊吉が、あの、丸木砂土と同人物であることも知らぬ人も多かったのでは。
http://www.gei-shin.co.jp/comunity/17/18.html
秦豊吉 ウィキペディアWikipedia)より
秦豊吉(はたとよきち、1892年1月14日 - 1956年7月5日)は、実業家、興行家、演出家、翻訳家、随筆家。7代松本幸四郎の甥として東京に生まれる。
【来歴・人物】
東京府立一中を経て、一高では文芸部に。東京帝国大学法科大学卒業後、三菱商事に勤めるが、文学趣味が強く、ドイツ文学を翻訳した。1917年から1926年まで社命でベルリンに滞在し、1923年結婚のためいったん帰国、その際関西に移住していた谷崎潤一郎を訪ね、谷崎は秦の様子が変わったのを見て「友田と松永の話」のモデルにしたと言われる。

帰国後、マルキ・ド・サドをもじった筆名「丸木砂土」で小説『半処女』(1932)やエロティック随筆を書き、ゲーテファウスト』などの翻訳も行う。三菱合資会社勤務中、レマルクの『西部戦線異状なし』を翻訳、中央公論社から単行本として刊行し、ベストセラーとなる。1933年、東京宝塚劇場に勤務、1940年同社社長となる。また1940年から2年間、株式会社後楽園スタヂアム(現:東京ドーム)の社長を務める(1953年まで同社会長も務めた)。敗戦後、戦犯に指定されるが、1947年より東京帝都座で日本初のストリップ・ショーを上演し成功を収め、1950年帝国劇場社長になり、国産ミュージカルの上演で成功を収める。日本劇場社長時代、小林一三に買収され、のち東宝社長に。

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『二列目の人生 隠れた異才たち』 池内紀/著 晶文社 2003年発行
秦豊吉 鴎外の双曲線 (一部抜粋しています)
秦豊吉は3つの人生を生きた。1つは、三菱商事エリートとしてのそれである。府立一中、一高・東大法科卒の優等生は、新妻をともなってベルリン支店へ赴任した。十数年にわたる三菱時代のあいだ。彼は無遅刻、無欠勤のモーレツ社員だった。
2つ目は文筆家としての人生である。ベルリン駐在中は精力的にヨーロッパの文芸思潮を紹介した。そして多くの翻訳をした。レマルクの『西部戦線異状なし』をはじめとして、第一次大戦後のドイツの話題作は、おおむね秦豊吉訳を通してこの国に入ってきた。
3つ目は演劇人としての人生である。40代のはじめ、秦豊吉は三菱より東宝に転じ、以後は舞台芸術に没頭する。その才覚は、もっぱら、レヴューやコミック・オペラといった軽演劇の分野で発揮された。秦豊吉企画・脚本・演出による数々の舞台は、わが国のモダニズムが、まがりなりにも実現しためざましい成果だった。
正確にいえば、さらにもう1つの人生がある。「丸木砂土」のペンネームのもとにおこなったエロス文学顕彰のそれである。ドイツから帰国後、彼は三菱商事総務部に勤めるかたわら、『好色独逸女』や『処女学講座』、また『世界艶笑藝術』を著した。発売禁止をものともせず、シュニッツラーの『輪舞』を訳出した。軍服と精神訓話が幅をきかせる軍国ニッポンにあって、このマルキ・サド氏は、ゆがめられ、蔑視の目でみられがちだった性の文学を正当な位置に据えなおした。
夏のある日、奈良県大和高田市へ行った。大原由紀夫さんがいる。元東宝プロデューサーで、秦豊吉の死後、遺品の整理にあたった一人だった。大原さんはいま、古代史研究に打ちこんでおり、住居も古い町へ移した。
豊吉は東京・大森にあった。昭和31年(1956)7月、秦豊吉死亡。書斎の整理に訪れたのは8月末で、残暑のきびしい午後だったという。部屋のまん中に大きな机と革張りの椅子があり、まわりに膨大な書籍が重なり合っていたそうだ。西陽のさしこむゴシック風の窓の外で、ひぐらしがしきりに鳴いていた。
ベルリン時代の秦豊吉だろう。いかにも若々しい写真が1枚。「さぞかし楽しかったと思いますよ」。
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一高生秦豊吉が鴎外訳『ファウスト』の誤訳にくってかかったのは、有名なエピソードである。鴎外がどのように応じたのかは伝わっていない。<ホンヤク>の何たるかを知らない青年の客気に辟易しつつ、黙殺することのしたのではなかったか。
それからほぼ30年後、秦豊吉を社長にいただく帝劇は、社長じきじきの肝煎りによる東宝演劇研究会の総力をあげて『ファウスト』を上演した。記録にのこっているところによると、河野秋武ファウスト、神田三朗のメフィスト園井恵子のグレートヒェン、高橋豊子のマルテ。音楽指揮プリングスハイム。つづいて、こうある。
「訳補・演出 秦豊吉
社長みずから3幕18場の台本を書いたわけだ。連日大入りで、社長は劇場に3日の日取りしかとらなかったことを地団太踏んでくやしがった。
おもえば奇妙な双曲線といっていいのである。秦豊吉森鴎外と同じように、終生、俸給生活と文筆生活とを使いわけた。はじめてドイツに赴いたとき、大学出たてのエリート社員は、陸軍省派遣のエリート留学生、森林太郎と同じように「乙女のような官能をもって」異国を体験したはずだ。秦豊吉は「雪の謝肉祭」と題したエッセイのなかに、ミュンヘンの雪の一夜を哀惜こめて描いている。芝居が終わって外に出てみると、風がないので粉雪が音も無く降りつづけていた。そのなかを黒マントに身をつつんだ夜会服の男女が、仮面で顔をかくして夜ふけの劇場入口へと急いでいく。
自分の思い出に重ね合わすように豊吉は書き添えた。
明治19年3月8日、森鴎外の『ドイツ日記』によると、鴎外もミュンヘンに到着したその晩に、大鼻のマスクをかぶって、この劇場の謝肉祭に飛び込み、その夜馴染になった黒い仮面の女を、家まで送り届けている。やはり大雪の晩であった」
ドイツ滞在中にできた『文藝趣味』が、鴎外にとって『舞姫』や『うたかたの記』と同じように万感の思いを託した異国への置き土産であることを、芥川龍之介は明敏に感じとっていたのではあるまいか。

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