じじぃの「人の死にざま_904_山本・栄一郎」

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思い出の決勝戦 高校野球 羽佐間アナと山本英一郎 動画 YouTube
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職業野球!実況中継: 山本栄一郎と三原脩 
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山本栄一郎 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
山本栄一郎(やまもとえいいちろう、1902年(明治35年)3月8日 - 1979年(昭和54年)12月15日)は日本のプロ野球選手。日本初のプロ野球球団である日本運動協会で主将を務め、後に東京巨人軍(現・読売ジャイアンツ)にも入団した。右投げ右打ちで、守備位置は投手を中心に捕手以外のほぼ全て。投法はサイドスローであった。
大の餅好きであったことから、チームメイトからは「バブさん」(バブは島根の方言で餅のこと)のあだ名で呼ばれた。

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『新忘れられた日本人』 佐野眞一/著 毎日新聞社 2009年発行
職業野球選手第1号 山本栄一郎 (一部抜粋しています)
満映社員の小泉吾郎がつくった日本初の女子プロ野球チームの「ロマンス・ブルーバード」が、入団テストに際して重視したのは、プロ野球選手としての運動能力の高さ以上に、独身で容姿端麗という点だった。
GHQは占領制作の重大な柱のひとつとして、戦前の日本にあった男尊女卑の風習を打破する方針を打ち出した。小泉が女子野球に目をつけたのは、そこに「女性の時代」の到来を感じ取ったからだった。
だが、小泉が純粋に女子野球の振興を目指したとすれば、「独身で容姿端麗」という条件は必要なかったはずである。小泉が考えたのは、エンターテインメントの要素をもった華やかなレビューのような野球チームだった。
小泉は、「ロマンス・ブルーバード」の前身の「東京ブルーバード」の主力選手だったキャバレー「メリーゴールド」のダンサーたちに、コンパニオンとしての役割も期待した。昼間グラウンドで活躍した選手たちは、試合が終わった夜の宴席では興行主や相手チームの選手たちに酌をさせられた。
満映時代、興業の世界の水になじんだ小泉にとって、女子野球部はあくまで見世物の延長戦上にあったのである。
その後、エーワンポマードやキンケイ食品、わかもと製薬、紅梅キャラメル、京浜急行なども相次いで女子野球チームを結成し、昭和25(1950)年3月には、日本女子野球連盟も結成された。
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ここからは、女子野球の世界を少し離れ、日本のプロ野球の草創期に活躍した往年のスターたちを紹介していきたい。
最初に取り上げるのは、日本初の女子プロ野球チーム「ロマンス・ブルーバード」の監督になった山本栄一郎である。山本栄一郎といっても、彼の名を知る人はほとんどいないだろう。しかし、山本栄一郎はわが国職業野球選手の第1号の栄誉を担う男だった。
ここで、日本のプロ野球の歴史を簡単に振り返っておこう。
日本のプロ野球の歴史は、正力松太郎昭和9年12月に創設した大日本東京野球倶楽部というのが、定説となっている。だが、日本の職業野球はさらに深い歴史をもっている。
わが国に職業野球なるものが初めて呱々(ここ)の声をあげたのは、大日本東京野球倶楽部の結成に遡ること14年も前の大正9(1920)年秋のことだった。
日本運動協会と名づけられたこのチームの結成に尽力したのは明治34(1901)年、早大教授阿部磯雄がつくった同大野球部の草創期の選手たちだった。
これら早大野球部OBが職業野球チームの結成を決意した背景には、早大野球部がわが国初の海外遠征でアメリカのプロ野球とじかに接したことがあげられる。
しかし、他にプロ球団がないたったひとつの職業野球チームという絶対的矛盾が同協会の経営をじりじりと圧迫し、日本運動協会は創立後3年目にして幕を閉じることになった。
解散に追い込まれた日本運動協会に救援の手を差し伸べたのは、阪急電鉄創始者小林一三だった。小林には、女性客を集めるには宝塚少女歌劇団、男性客を集めるにはプロ野球という現実的計算もあった。
しかし、小林がつくった宝塚運動協会も、他に戦う相手のない唯一のプロ球団という矛盾を抱えていたことにはかわりなく、たちまち解散に追い込まれた。
こうして”正力以前”のプロ野球球団は姿を消すが、大正末期、わが国にはもうひとつ、風変わりなプロ野球チームが存在していた、明治、大正期、美貌と新しいアイディアの連発で一世を風靡した女流奇術師の松旭斉天勝一座がつくった天勝野球団である。
少し回り道をしすぎた。いよいよ山本栄一郎について語る番である。
山本は1という数字に縁がある選手だった。山本は、わが国最初の職業野球チームとなった日本運動協会で主将兼4番バッターで、なおかつエースピッチャーをつとめた選手だった。
大正12年6月、京城(ソウル)の竜山満鉄グラウンドで、日本運動協会と天勝野球団の一戦が行われた。日本初のプロ球団同士の試合だった。山本はこの試合に先発として登板したプロ第1号のピッチャーだった。
山本は日本運動協会が解散後、後身の宝塚運動協会に移り、その後、満州の実力ノンプロチームに移籍した。山本が戦後、わが国最初の女子プロ野球チームの監督になったのは、戦前の大連実業時代、よく試合を見に来ていた満映の小泉と顔なじみのためだった。
山本について取材した1994年当時、東京・北区に住む山本の長男のもとには、日本運動協会以来の山本の記録を集めたスクラップブックが保管されていた。山本自身が生前収集したそのスクラップブックのなかで、ひときわ目をひいたのは、昭和9年8月24日付きの読売新聞の記事だった。
「日本最初の職業野球団、愈(いよい)よ近く誕生!」という見出しを掲げたその記事は、千葉県谷津海岸の埋め立て地に大日本東京野球倶楽部が近々完成するという内容を伝えるものだった。その記事の欄外に、山本自身が記した次のような書き込みがあった。
<正式には4番目なり!!>
読売巨人軍の前身の大日本東京野球倶楽部は、日本運動協会、天勝野球団、宝塚運動協会に次ぐ4番目のプロ野球チームにすぎない。
暴れたような赤インクの文字には、歴史を改竄(かいざん)することは許さないという山本の激しい怒りが叩きつけられているようだった。

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