じじぃの「人の生きざま_140_R・バース」

ランディ・バース - あのひと検索 SPYSEE
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阪神タイガース バース、掛布、岡田 伝説のバックスクリーン3連発 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=1CEQKUqy42k&feature=related
世界への夢 大リーグから、そして大リーグへ 4/5 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=z6zxNttXnNI&feature=related
ランディ・バース ウィキペディアWikipedia)より
ランディ・バース(Randy William Bass, 1954年3月13日 - )は、アメリカ合衆国オクラホマ州ロートン生まれの元プロ野球選手(内野手)、政治家。
2004年からオクラホマ州議会の上院議員民主党)。
【プレースタイル】
バースが高い成績を残せた理由としては、苦手としていた速球投手が日本に少なかったこと、日本に順応しようと努力していたことが挙げられている。ただし、日本語は全く覚えようとせず、遠征中はチームメイトと別の高級ホテルに宿泊していた。掛布雅之が浜風の強い甲子園対策として身に付けていた独特の流し打ちを伝授したこともバースの打撃の幅を広げ、持ち前のパワーと相まって驚異的な成績を残すことになる。狭い球場や左方向に強い風が吹いているときには、軽く流しただけでレフトスタンドへの本塁打になるほどだった。1985年の日本シリーズ第1・2戦の本塁打などはその典型である。ちなみに、メジャー時代はそのパワーから 「ニューヨークからロスまで飛ばす男」と呼ばれていた。
他にも、長崎啓二の打撃を徹底的に研究しており、長崎が打った日本シリーズ第5・6戦のホームランを指し、「ボクのホームランはたまたま風に乗っただけだよ。その点、ナガサキのホームランは本物だった」と絶賛していた。また川藤幸三に色々な面で世話になったことから、今でも「カワトウには感謝している」と語っている。ある特集番組では「三冠王を獲ることができたのはカケフのおかげである」と語ったこともある。
規定打席に到達した5シーズンのうち、OPSでリーグ1位を3回、リーグ2位を2回記録している。

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文藝春秋 2011年10月号
最強チームの法則 「1985年の阪神タイガース
R・バースが語る26年まえの日本一 【執筆者】シャノン・ヒギンス (一部抜粋しています)
1985年、当時21年ぶりにリーグ優勝し、初の日本一に輝いた阪神タイガースのナインには特別な「何か」があった。
「神様、仏様、バース様」と呼ばれ、その年の3冠王とMVPに輝いたランディ・バース(57)が当時の阪神ナインを振り返る。
「パズルのピースがすべてバチーッとそろったというのが、当時の阪神だよ。どうしようもないほどにみんな個性はバラバラ。特別みんなが仲良かったわけではない。みんながライバル。だが、1つのファミリーであり、ひとたびフィールドのラインを跨いだら、ひたすら同じ目標に向かって突き進む心から信用できる同士だった」
85年以降、2003年、そして05年にもリーグ優勝をした阪神。それぞれのチームに確かに魅力はあった。だがそれ以上に、85年の阪神は個性が強く、なんとも魅力的なチームであったことは周知の事実だ。
「自分の野球美学をもっていた真弓。ベテランの強打者カケ(掛布)。若手として急成長していた岡田。みんなを叱咤激励し、心の支えとして大きな役割を果たした川藤さん。そして安藤元監督の築き上げたチームを大切にし、門限を廃止するなどして自由な空気を生み出しながら、大胆かつ慎重に試合の組み立てをした吉田監督。本当に面白いチームだった」
決して自分の存在を大きく語らないが、バース自身の役割も大きかった。
「僕があのチームに貢献できたのは、なんとか日本野球に慣れることができたからさ。優勝の前の年の84年なんて、日本の野球のメンタリティーが解らず、シーズン序盤から苦労の連続で、自信はゼロ。真剣に野球選手をやめようとも思った。それこそ、シーズン終了後に安藤監督に『誰かをクビにしないといけないなら、僕をクビにして打てる男を連れてきてきれ』と直談判したこともある。安藤さんの『お前は残れ』という言葉は忘れない。おかげで安藤さんが築いたそのチームで翌年の優勝に貢献できたし、恩返しもできた」
自ら「チャレンジ精神が旺盛で物事の飲みこみが早い」と語るバースだが、日本の野球を理解するのに、一人の男が大きな役割を果たしている。「なにわの春団治」こと川藤幸三選手がその人である。
「川藤さんは、片言の英語まじりの日本語で遠慮なく話をしてくれて、僕を一人にしなかったんだ。最初は何を言っているか分からないときもあったけど、とにかく熱く語ってくれる。将棋を教えてくれたのも川藤さん。将棋をはじめて日本の投手のメンタリティーが解るようになった。日本の野球はストレートな力比べじゃない。何手も先を読まなければいけない詰め将棋だってね」
実は、阪神が85年に優勝する2年前、川藤幸三阪神に引退勧告を突きつけられている。だが、球団側が「タダでもいいから阪神で野球を続けさせてくれ」という強い熱意に打たれ、現役を続けることができた。プロ18年間で通算293塁打。代打として、優勝した85年の安打数は5。決して記録に残るバッターではない。だが、バースは力を込めて、こういう。
「彼はあのチームに欠かせないリーダーだった。85年のチームはロッカールームで和気あいあいというわけではなかった。もちろん、試合が終わっても、各々が自分の仲の良い選手と出かけていく。勝っている間は問題がないが、負けが続くと、さすがに険悪になる。そんなとき、力を発揮するのが川藤。みんなを集めて、一緒に飲みに行き、それぞれの愚痴を聴き、強引にでもコミュニケーションをはかり、みんなの気持ちをリセットさせるチームの兄貴的な存在だった」
バースは当時を思い出すように沈黙し、静かに続けた。
「そういう意味ではドロクサイというか、おおらかというか、結果だけのビジネス球団にはない、何かがあのチームにはあったと思う。正直、あの年、ごくごく数人の選手以外、誰も阪神が優勝できるチームだとは思っていなかったと思う。当時の巨人は長嶋、王が抜けて少し経っていたにもかかわらず、圧倒的な強さを誇っていた。いや、それ以上に『最強』という幻想がみんなに植え付けられていて、そもそもその幻想に打ち勝たなければ、優勝という言葉を口にすることもできなかった」
その「幻想」を打ち砕いたのが、シーズン序盤、4月17日の対巨人戦。伝説として語られる「バース、掛布、岡田のバックスクリーン3連発」だ。
「重いストレートが面白いように決まる巨人先発の槙原をどう打ち崩すか、ずーっとカケと観察していたんだ。そうしたら6回あたりから微妙に崩れだし、やたらとチェンジアップとかスライダーを投げ出したんだ。しかも、見事な棒球(笑)。心の中で祈っていたよ。『どうかピッチャーを替えないでくれ』ってね」
狙い球を決めていたバースが、7回裏に回ってきたチャンスを見逃すはずもなく、シュート回転がかからず甘く入ったボールをバックスクリーンに弾き返した。それに、掛布、岡田と続き、阪神の勝利。
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日本一から26年。バースは牧場経営を続けながら、米、オクラホマ州議会の上院議員民主党)を務める。「野球と違ってさすがに『ゲーム』という感覚はないし、それこそ自分の利権だけを考えた個人プレーが多い世界。でもね、成功して、残っている人は、自分の利権や名誉を考えるのではなく、チームとして働き、人の話に耳を傾ける。誰か一人のためではなく、全体の利益を考え、必ずみんながウィン・ウィンの解決策を生み出す。つまり、大事なのはチームプレーなのさ」

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