じじぃの「人の生きざま_296_松平・康隆」

時間差、クイック…ニッポンバレー築いた松平康隆さん死去 2012年1月6日 スポニチ
バレーボールの男子日本代表監督として72年ミュンヘン五輪で金メダルを獲得した松平康隆(まつだいら・やすたか)氏が昨年12月31日午後0時21分、肺気腫のため東京都内の病院で死去した。81歳。葬儀・告別式はすでに近親者のみで済ませ、後日お別れの会を開く予定。指導者として速攻や時間差攻撃などの革新的な技術を開発。日本バレーボール協会会長を務め、日本オリンピック委員会JOC)の選手強化本部長、副会長まで歴任した。その訃報に、スポーツ界は深い悲しみに包まれた。
http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2012/01/06/kiji/K20120106002374600.html
松平康隆さんを偲ぶ 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=XndcYXCTef0
FIVBワールドグランプリ2010 岡山大会 井上&山口 時間差攻撃 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=0tWb9jfQJCw
松平康隆 ウィキペディアWikipedia)より
松平 康隆(1930年1月22日 - 2011年12月31日)は、日本の元バレーボール全日本選手、元バレーボール全日本男子代表監督、日本バレーボール協会名誉顧問。アジアバレーボール連盟終身名誉会長。国際バレーボール連盟名誉副会長。日本オリンピック委員会名誉委員。2008年3月から“心の東京革命”推進協議会(東京都青少年育成協会)会長。

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文藝春秋 2012年3月号
蓋棺録 「松平康隆(まつだいらやすたか)」 (一部抜粋しています)
全日本男子バレーボールチームの男子チーム監督・松平康隆は、日本の男子チームを金メダルに導き、世界のバレーボール界をリードした。
1972(昭和47)年9月9日、全日本男子バレーボールは、ミュンヘン五輪決勝の大詰めを迎えていた。東ドイツを相手にマッチポイントを握り、猫田勝敏選手がサーブ。東ドイツはレシーブしてスパイクを打つ。しかし、それはサイドラインを割って、この瞬間、日本男子チームは金メダルをつかんだ。
「もう死んでもいいと思った」。
30年、東京に生まれる。父はドラム缶販売会社社長。16歳で失明した母は、自分でも骨壺の製造会社を経営していた。
子供のころからスポーツ好きだった松平は、書道塾に通うふりをして草野球に興じた。ところが、ある日、帰宅すると母が険しい表情をして、「目の見えない人間をだますなんて、人間のクズのすることだよ」と叱責した。松平はこの言葉を生涯忘れなかった。
中学時代からバレーボールを始めて東京大会で優勝。慶應義塾大学で学生チームとして戦後初めて天皇杯を獲得し、さらに、日本鋼管に入社してからも天皇杯を手にしている。
東京五輪のさいには男子チームのコーチを務め、銅メダルを獲得したのに、市川崑監督の記録映画『東京オリンピック』ではワンカットも登場しないのを悔しがった。
全日本男子チームの監督に就任するや、急速にチームを強化して、メキシコオリンピックでは銀メダル、ミュンヘンではついに金メダルに手が届いた。「負けてたまるか、という思いで世界一を目指した結果です」。
松平は大柄な選手たちに、体操選手並みの俊敏さを要求してレシーブ能力を高め、おとりがジャンプして相手のスキを衝く「時間差攻撃」を編み出した。さらに、選手たちに自信と自覚を持たせるため。「君がいなければチームは成り立たない」と説いた。
ミュンヘンから帰国すると、知り合いの政治評論家・藤原弘達から電話があり、金メダルのお祝いを述べたあと、「松平さん、これからあんたの人生は余生だからな」という。しかし、まだ42歳、隠棲するには早過ぎすぎた。
79年から日本バレーボール協会専務理事、89(平成元)年から会長を務める。
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TBSテレビの『おやじ登場』で司会を務め、雑誌で政治家や評論家と日本の将来について語った。「何もしなくても一生だが、何かをなすことが、生きていることの証だと思う」。

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松平康隆 Google 検索
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