じじぃの「人の死にざま_791_鶴田・浩二」

鶴田浩二 - あのひと検索 SPYSEE
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鶴田浩二〜同期の桜(台詞) 動画 YouTube
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傷だらけの人生(鶴田浩二 動画 YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=SRap6i9PlVY
ハワイの夜 動画 YouTube
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鶴田浩二 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 (一部抜粋しています)
鶴田浩二(つるたこうじ、1924年12月6日 - 1987年6月16日)は、日本の俳優、歌手。本名・小野榮一。静岡県浜松市出身。昭和を代表する映画スターとして数多くの映画やドラマに主演した。歌手としても多くのヒットを出し、独特の歌唱法でも有名だった。
【トップスターへ】
1948年、高田浩吉大曾根辰夫監督の尽力で松竹入り。芸名の「鶴田浩二」は師匠の「高田浩吉」に由来する。映画界へ身を投じたものの、最初は大部屋に入れられた。いくつかの映画に端役で出演したが、すぐに頭角を現し、長谷川一夫主演の松竹『遊侠の群れ』で本格デビュー。1949年、『フランチェスカの鐘』で初主演。佐田啓二高橋貞二と共に松竹青春三羽烏と謳われヒットを連発。
1950年代に入っても甘い美貌と虚無の匂いを漂わせスター街道を上り続け、芸能雑誌「平凡」の人気投票で、2位の池部良、3位の長谷川一夫を大きく引き離しての第1位になる。マルベル堂のブロマイドの売上も1位となる。甘い二枚目からサラリーマン、侍、軍人、殺し屋、ギャングに至るまで幅広くこなす。
1952年には戦後の俳優の独立プロ第1号となる新生プロを興した。SKD(松竹歌劇団)のトップスター、ターキーこと水の江瀧子(後に石原裕次郎を発掘しプロデュースした)らが所属タレントとなった。恋人と噂された岸惠子と共演した戦後初の海外ロケ映画『ハワイの夜』(新生プロ制作)も大ヒット。戦後最大のロマンスといわれた二人だが、岸が所属する松竹はそれを許さなかった。鶴田は自殺未遂事件を起こす。同年、「男の夜曲」で歌手デビュー。歌手としてもヒットを飛ばし戦後の日本を代表する大スターとなっていく。
【晩年と没後】
1985年にガンが判明したが、本人には本当の病名を伏せていた。その後闘病生活が続いたものの、1987年6月16日に肺癌のため、62歳で死去(遺作は前年のNHKドラマ『シャツの店』)。鶴田の葬儀の際には多くの戦友や元特攻隊員が駆けつけ、鶴田の亡骸に旧海軍の第二種軍装(白い夏服)を着せた上、棺を旭日旗(いわゆる海軍旗)で包み、戦友たちの歌う軍歌と葬送ラッパの流れる中を送られていった。弔辞は池部良が務めた。
【人物像】
無類の野球好きとしても知られ、鶴田ヤンガースなる私設野球チームを率いたこともある。
特攻基地を飛び立つ戦友たちを見送っていった鶴田は、シベリアで倒れていった戦友たちを見ていた作曲家吉田正と親交が深かった。「鶴さん」「吉さん」と呼びあう仲で、鶴田のヒット曲のほとんどは彼の作曲のもの。

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『30年の物語』 岸恵子/著 講談社 1999年発行
追悼 (一部抜粋しています)
その人が死んだ、と日本から電話がかかった。追悼文を書けとの要請である。
「もうだいぶ長いこと患っていらしたんです。ご存じでしたか?」
とマスコミの人が言う。なんで知るかョ……私は窓を開けて閃光が走る黒雲を眺めた。日本はもうじき七夕さま。この年のパリは異常気象で、6月中旬というのに冬のように寒く、この日、叩きつけるような豪雨の中で、窓辺に咲いた天竺葵(てんじくあおい)の花弁が裂けた。
鶴田浩二という人が、ななめに落とした肩のあたりに甘いニヒリズムをにじませて日本中の若い女性を熱狂させていた頃、私はまだ中学生だった。男のヒトというのは父と学校の先生と、茶・華道のお稽古に通っていたS家の3人の兄弟しか知らなかった。S家の家長も私の父も神奈川県庁の官吏で、子供の教育にむやみと厳しかった。
私はS家の長男に英語と数学の個人教授を受け、同年の次男とはバカバカしいほど競い合ってガクモンというものに熱中していた。
そういう時代だったのである。テレビもゲームセンターもなく、父兄不同伴の映画観賞は校則で禁じられていた。
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松竹大船の契約俳優たちの中で、今言うマネージャーにあたる人物がいたのは、私の記憶では鶴田浩二さんただ一人であったと思う。
兼松廉吉というひじょうに魅力のある敏腕マネージャー兼プロデューサーであるその人に、「ハワイの夜」という脚本を渡されて読んだのである。この企画は鶴田浩二とあなたのために立てた。このヒロインはあなたしかいない、と言われて、私もそのとおりだと思った。
それがなぜ、「アプレ・ガール!!」なのか。理由は、「ハワイの夜」が、松竹作品ではなく、新東宝の作品だったからなのだった。私は契約こそなかったが、研究性の名の下で高村潔撮影所長の秘蔵っ子のような存在だったのだと思う。
当時すでに「五社協定」という俳優の自由を縛る会社のご都合主義的談合があったかどうか憶えていないが、「恩人に後足で砂をかけた」と言われても仕方のない状況になった。
ただ「恋の逃避行!」とか、「松竹を飛び出して新東宝へ!」なんぞという、今も昔も変わらぬ騒々しいマスコミ裁決にはうんざいした。
私は逃避行もしないし、新東宝へ移りたいなどとはユメ思わなかった。ただ「ハワイの夜」に出演したかっただけなのだった。
      ・
スターになった私が映画界の穢(きたな)いあくに染まらぬようにと、鶴田浩二さんは心配してくれた。
「君はいつまでも今のままでいなさい。女優くさくなっちゃ駄目だ」
たび重なるお説教節に私は内心ペロリと舌を出していた。私は映画界のあくに染まったり、女優くさくなるほど、素直でかんたんな女の子ではないのだった。
遠かったロケ帰りのある日、私たちは暗い山道を走っていた。まだ「ハワイの夜」も「君の名は」も撮っていなかったが、同時に2本も3本もかけ持ちをさせられる10代の女の子は、自分の行動形態が次第にスターという生き物に近づいてゆくことに苛立(いらだ)っていた。人眼を避けるためについ暗い道を選び、人込みの中では顔をかくすようにしてもの凄く足早に歩く。それは私の性(しょう)に合わなかった。
「ねえ、ネオンのキラキラした明るい町中を走りましょう。一度でいいから鶴田さんと銀座のど真ん中を歩いてみたい」
「おそろしいことを言うお嬢さんだね」
「どうして天下の大道を2人で歩いちゃいけないの? 男と女だから? スターだから?」
興奮した私を軽くいなして彼は山の頂上のようなところで車を止めた。
「さあ降りなさい。天下の大道を2人で歩こう」
「いや。こんな山の中いや。明るい天下の大道がいいッ」
「駄々をこねるんじゃない」
この人はこのときから十数年ののちこんな歌をうたっている。
「真っ平ご免と 大手を振って 歩きたいけど 歩けない……日陰育ちの 泣きどころ 明るすぎます 俺(おい)らには……」
こういう俺らには与(くみ)することはできない。何から何まで真っ暗闇よ、筋の通らぬことばかり……という任侠の世界のカッコよさは、特攻隊の美々しさへのノスタルジーと同じように私には馴染(なじ)めない、といっても私はこの歌を聞いたこともないし、全共闘世代に人気のあったという「傷だらけの人生」も観たことがない。だから私は鶴田浩二を語る適任者では決してない。
ともあれ、山頂に車をとめたときの俺らは上機嫌だった。ちょっとばかりロマンティックでない匂いがただよってはいたが、あまりのうつくしさに私は息を呑んだ。満天の星が手をのばすとつかめそうだった。
      ・
「さ、君から先に離れてくれ、おれ、君がとても大事なんだ。大事にしたいんだ」
私ははっとして身をひいた。死にたいほど恥ずかしかった。「ごめんなさい」と言いながら、なぜあやまらなくてはいけないのかわからなくて泣きべそをかいた。
彼はまた抜けるような明るい笑いで笑い、私を軽々と抱き上げて、バスケットボールのように天空に掲げた。
「両手をうんと高くあげて星を奪(と)れ。たくさん奪ってきれいな花嫁衣装を作れ」
思いのたけキザな科白(せりふ)が、満天の星とコヤシの匂いの中で、なんとも言いようなく絶妙な可笑(おか)しさを作り、私たちは天下の嶮のてっぺんでいつまでもいつまでも笑っていた。
その人が死んだのだという……。胸の奥が焼きつくように痛い。コヤシの匂いがした満天の星がどっとおっこちて来たようで、お腹の底がよじれるように痛い。

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